幾度ここに足を運んだだろう。
君のいなくなった世界でこの10年僕はどうやって生きてきたかさえ
今思い出せない。
ただがむしゃらに前だけを見て生きて行けたなら
よかったに、
僕にはできなかった。
半身をもがれたようにずっと感じてる痛みを君を
刻とともに無くしたくはない。
君は『いつだってどんなときだって心は僕とある。』と言った。
たとえそれがこの空の彼方であろうとも僕は遠い君を想う。
愛してる・・・。
アキラは随分長い間そこに佇んでいた。
そして思い出したように鞄からそれを取り出した。
「君の棋譜を監修した本なんだ。これで3冊目になる。」
独り言のようにつぶやいてアキラは本を手向けた。
1冊目は公式戦をもとに彼の名譜をまとめた。タイトル戦や
世界戦の棋譜が主で有名なものばかりだった。
2冊目はそれを一般の対局、大手合いまで広げた。
大勢のプロ棋士が協力し携わった1冊となった。
そして3冊目、これはアキラが個人的にヒカルと対局したもの
をまとめたものだ。
プライベートで対局したものが主なので流石に全てではないにしろ、
今まで自分だけのもののように大切にしてきた君との記憶を
時間をこの1冊に纏めた。
この3冊の収益はすべて赤十字への募金にあてることになってる。
こんなことぐらいしか今のアキラに出来ることは思いつかなかった。
『君には不名誉だろうけれど、中学の団体戦で僕と打った1局も
ここには載せているんだ。』
進藤ヒカルにもこんな時期があったことを知ってもらい
たかった。
そして・・・亡くなる前に病室で打った1局も。
ただ初めて出会った碁会所で打った棋譜は載せていない。
彼は僕に結局何も話さずに逝ってしまったから。
アキラは俯いてしばらく目を閉じた。
恨み言の一つでもいいたい気分だった。
けれど・・・。
瞳の奥の君はほほ笑んでいて言えなくなる。
アキラは顔を上げて真っ直ぐに見据えた。
ようやく僕は君との約束を果たした。
あれから10年、5冠だった君にはまだ遠く及ばないけれど、
名人位になったんだ。
これからも生きている限り僕はずっとこの道を歩んでいくだろう。
いつだって君の志は僕とともにあるのだと信じてる。
アキラはようやく立ち上がった。
墓地を出ようとした時見慣れた車が駐車場に止まって
いることに気づいた。
案の定アキラの姿を見て献花を抱いた緒方が降りてきた。
緒方は苦笑した。
「緒方さんも?」
「ああ、あいつの命日だからな。でもお前に先を越された。」
緒方はアキラが帰るのを待ってくれていたのだろうと察しがついた。
「婚約の報告でも?」
緒方は先日婚約者と結納を交わしたばかりだった。
それに緒方が笑った。
「いや、お前は名人位になった報告か?」
「想像にお任せします。」
流石に奪った相手には言えず
アキラは緒方に一礼した。
「失礼します。」
緒方の横をすり抜けようとした時呼び止められた。
「まあ、待て、」
「お前はいつまで足を止めているつもりだ?」
「立ち止まってるつもりはないですよ。」
「そうか?オレには今も縛られてるようにみえるがな。」
何に?とは問わない。そんなことはわかりきっていることだ。
「それは緒方さんもでしょう?」
「そうかもしれんな。」
なぜか緒方は嬉しそうに笑った。
「その様子だとまだあの噂は耳に入っていないようだな。」
「噂?」
「ああ、ネット碁だ。」
勿体ぶった言い方だった。
緒方が何を言いたいのかアキラには皆目わからなかった。
「2週間ほど前からsaiが現れた。」
saiは進藤が病室で使っていたハンドルネームだ。
当然彼のはずがない。
「また偽物でしょう。」
進藤がsaiのハンドルネームを使っていたことは亡くなってから
だが一般に知られていた。
父が引退を決めたというsaiとのネット対局も今は進藤自身が
打ったものだと認識されてる。
だが当時の進藤の棋力、実力ではないという声もありアキラも
違うだろうと思ってる。
ただ今も「saiのネット最強伝説」は健在で
saiのハンドルネームは冷やかしでもあやかりでもよく似た
ものが次々と登録されていた。
「オレもそう思ったんだがな。昨日saiと対局したオレは
全身雷でも落ちたような衝撃を受けた。」
大げさな言い方にアキラは苦笑した。
「負けたんですね?」
「ああ、それも完敗だった。」
そう言った緒方はやはり嬉しそうだった。
「その前は高永夏が負けていた。」
高永夏は現在世界ランキングトップとも言われてる。
その高永夏が負けたとなると大げさな緒方の言い回しも
あながちではなさそうだ。
「その高永夏が言ったんだ。日本に・・・。
ネットに進藤ヒカルの亡霊がいるってな。それでいっきに
話題になったんだ。」
「下らない話です。プロ棋士の誰かでしょう?」
「そうだな。だがお前も打ってみればわかるさ。」
緒方はそういうとアキラを置いて墓地へと歩き出した。
「だがオレは亡霊でもあいつと打てるなら光栄だがな。
もっとも本物のsaiかもしれんが。」
そんなはずあるわけがないことを緒方自身が一番知っている
はずだった。
それでも緒方に『そう言わしめる相手』がネットにいると言う事だ。
saiの名を騙るに相応しているかどうか?それはアキラ自身が
対局するしかないだろう。
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