「ヒカル、起きなさい!!」
階段下から美津子が大きな声を上げた。
美津子の声で起きた佐為は欠伸を噛みしめヒカルを見やる。
ヒカルはまだ布団の中ですやすや気持ちよさげに眠っている。
昨夜はギターの練習に台本読みをした後、佐為と夜更けまで
囲碁を打ちあった。
その後、疲れ果てたヒカルは片付けさえせず寝てしまったので、
碁盤も碁石も床の上に放り出されたままだった。
『アキラとの約束の為』
・・・ヒカルはそんな事は言わないが
少しでもヒカルなりにアキラの気持に応えたいと思っているのだろうと思う。
この忙しさの中で、ヒカルは少しでも時間があるとそうやって佐為と対局しようとしていた。
もう少し寝かしてあげようと時間を引き伸ばしつつ、間もなくマネージャーさんが迎えに来る時間にもなり、佐為は止む無くヒカルを起こしにかかる。
『ヒカル、時間ですよ。今日はヒカルが楽しみにしていた『顔合わせ』でしょう〜!!」
体のない佐為にヒカルを動かせるわけではないのだが、体を揺さぶってみたり、覆いかぶさってみる。
『う〜ん』と大きく布団の中で伸びをしたヒカルが目を開けた。
体重はないのにヒカルの上にずずっと覆いかぶさっていた佐為の姿に驚きヒカルは声を上げた。
「うわああっ」
その瞬間ヒカルはベッドから転げ落ちた。丁度そこは片付けてなかった碁盤の上で碁石が散乱した。
「いてててて・・・」
『ヒカル大丈夫ですか?』
「大丈夫じゃねえよ、たく、何って起こし方すんだよ」
大きな物音に驚き美津子が階段を駆け上がってくる。
「ヒカル、どうしたの!!」
「あはは、寝ぼけてベッドから落ちた」
「何やってんのよ。あんた大丈夫なの・・・それよりこの部屋なんなの」
散らかしっぱなしの部屋に呆れる美津子に、
ヒカルは眠気眼に転がった碁石を片付ける。
「黒木さんとの約束まであと10分よ」
この時になってヒカルはようやく時計を見た。
「ええっ?あと、10分すぐ行く」
ヒカルは慌てて着替えると、準備が出来ていた鞄に携帯碁盤を詰め込み階段を降りた。
髪もぼさぼさで服もありきたりのものだ。
それでもスタジオに行けば、スタイリストさんが何とかしてくれる
だろう。
「それにしたってもっと早く起こしてくれてもよかっただろう」
「もうヒカルが起きなかったんでしょう」
佐為は口を尖らせた。
顔合わせ1時間前に控室に入ったヒカルに専任の衣装とメークが入る。今までもメークや衣装さんはいたが、大部屋であったし
専任でもなかった。
主役になると扱いが変わるとは聞いていたけど、1人の部屋は
ヒカルには広くてどうも居心地が悪かった。
鏡の中のヒカルはみるみる変貌を遂げていく。
ちょっとしたメークでも随分変わるものだ。
「アキラもメークした?」
「ああ、あの華のある子。ヒカルくんもだけど
素が綺麗だからメークはナチュラルにしたよ。
・・にしても彼素人なんだって?礼儀正しくて驚いちゃったよ」
「まああいつは表面はいいからな」
「そうかな、内面から育ちの良さを感じたけどな」
軽い会話をしている間にメークとセットが終わり、1人手持ち無沙汰になるとヒカルは立ち上がった。
「オレちょっと覗きに行ってくる」
もちろんとばかりに佐為も手を挙げた。
「私も行きます!!」
佐為を伴い教えられたアキラの控室をノックする。
ややあって中から声がした。
「はい、どうぞ」
ヒカルが部屋を開けると、アキラはヘッドホンをつけていた。
机の上にはキーボードと譜面が置かれ空き時間に練習していたのだろう。
劇中でアキラとヒカルが演奏でする曲は3曲ほどあった。主題歌を入れると4曲だ。
「よお、アキラ?」
そういって本人を見た瞬間ヒカルはアキラに引き込まれた気がした。
相変わらずのおかっぱ頭の髪型はそのままだ。
初顔合わせと言え、堅苦しい服装ではない。
映画の役柄を意識したラフな白と黒を基調にした服装なのにそれはアキラに良く似合ってた。
「進藤、おはよう」
「ごめん、オレ練習の邪魔したか?」
「いや、君と合わせて練習したいと思ってたんだ」
「あちゃ、オレエレキギター家に置いてきちまったな」
「顔合わせの後、レッスンするって言ってたけど」
「スタジオのを使うからいいよ、それより・・・」
ヒカルはまじまじとアキラを見た。
「ちょっと見ない間にそれらしくなったって言うか、それより
お前の両親よく許してくれたな」
緒方とあの場で即決したアキラにヒカルは驚きを隠せなかったのだ。
今もこの場にアキラがいることが不思議で仕方ないぐらいだ。
「苦言は言われたよ。『全国大会出場』の次は『映画出演』
だから」
ヒカルへの嫌味も入っていて苦笑せざる得なかった。
「ただ、僕はもうこの映画限りで、約束は4か月だから。
囲碁以外の外の世界を知る機会があってもいいだろうって
僕が決めた事だ。精一杯頑張るよ」
ヒカルは少し勿体ないと思う。
たった4か月というのが。今回この映画を撮る間ヒカルとアキラは
ディオを組むことになってる。
それが楽しみであり、わくわくもする。
それと同時に『たった4ヶ月が』寂しくもあるのだ。
けれど、アキラには進むべき道がある。
ヒカルがそうであるように、
「オレもお前に負けないよう精一杯頑張るぜ、」
そう言った瞬間ヒカルとアキラは目が合い何とも恥ずかしい気持ちになった。アキラもそうだったのかもしれない。
一瞬の間の後アキラが話題を変えた。
「そういえば、映画に僕と君が囲碁を打つシーンを盛り込む
そうだよ」
ヒカルは初耳だった。
「ええっ?そんなのオレ聞いてないぜ」
「僕も二日前に芦原さんから聞いたんだ」
「芦原さん・・・?ひょっとしてプロ棋士の芦原先生の事?
お前知り合いなのか」
「ああ、芦原さんは僕の兄弟子なんだ。それに芦原さんは緒方さんとも知り合いなのだそうだよ」
「マジかよ?」
世間は狭いものだとヒカルは思う。
「それで映画の対局シーンは芦原さんが監修をする事になったんだ。
君と僕が東京都代表だったから。『モノトーンのタイトルにも適うだろう』・・・と緒方さんの提案らしいよ」
確かに緒方らしい気がした。
「それで、棋院から正式にこの映画のスポンサーになりたいと申し入れがあったんだ。
囲碁雑誌に映画の特集を組んで、君と僕の対談や記事を載せたいらしい」
知らない間にどんどんと進んでいく話にヒカルは驚いていた。
「えっと、棋院・・って確かこの間の会場だった所だよな?
オレちょっとあそこには行き辛えんだけど」
「どうして?」
「だって全国大会の2日目バックれたんだぜ」
「それはやむ得ない事だろう。棋院の方から
申し出たのだろうから気にしなくていいと思うよ。
それに今囲碁人口が減っていて碁界としてもなんとかして
若い人たちを取り込みたいんだ。もし僕でも力になれることがあるなら出来る限り尽くしたいと思ってる」
『そうです、ヒカル。囲碁をこの世界に普及させることも大事な
事なのです』
佐為にも諭されヒカルは頷いた。
ヒカル1人ならこんな事にはならなかっただろう。
佐為と出会い、アキラと出会ったからこそ広がって行く。
確かに今ヒカルは自分の世界が広がって行くのを感じていた。
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