夜7:00を過ぎ、
今日は珍しく碁会所はアキラだけだった。
お客がいても気になる場所ではないが
静かに流れるような時間を、
ここで一人棋譜並べするのがアキラは好きだった。
カランカランと優しく来客を告げる音が鳴る。
棋譜を並べ終えたばかりのアキラが顔を上げると、そこに
この碁会所には不似合いな少年が立っていた。
前髪だけ金に染まった髪、だっぽりと履いたズボンから
大振りのチェーンが垂れ下がってる。
見た目だけで判断するわけではないが、アキラの身近には
いないタイプであることだけは間違いなかった。
間違えてここに来たのではないかと心配になるほど、彼はあか抜けており、輝きがあった。
それはこの碁会所とは不釣り合いな気がした。
市川が出迎える。
「いらっしゃいませ、囲碁を打ちに来たのかな?」
「あ、うん」
「ごめんね。今日はお客さんたちが皆棋院の解説に行っちゃって
1人もいないのよ」
「そうなのか・・。せっかく来たのに、ってあそこに座ってるやつは・・?」
「えっ、アキラくん・・・彼は」
間違えて入ってきたわけではない、と安堵したのと同時に
アキラは彼がどういう碁を打つのか興味が湧いていた。
「構わないですよ。僕でよかったら」
アキラが立ち上がると一瞬少年が何かを確認するように振り返った。
「ああ、オレもお前でいい」
違和感のある言葉づかいだとアキラは思う。
「そういう事ならここに名前と棋力を書いてくれるかな」
「テキトーでいい?棋力とかよくわかんねえし」
市川との会話を聞いて彼が初心者なのだろうとアキラは
思う。
お金を払おうとした少年に市川は受け取らなかった。
「いいわよ、今日みたいな日は席料貰うと申し訳ないもの。
でも次からは貰うから」
「ありがとうお姉さん」
『ヒカルよかったですね。お金が要らなくて』と佐為がヒカルの後ろで跳ねる。
『でもいいのか、相手子供だぜ?』
『子供でも構いません。ヒカル以外の子供と打つなんて
初めてですし、それにあの少年・・・』
言葉の続きが気になったが、いつまでも相手を立たせたまま待たせる訳にはいかずヒカルが席に着くとアキラも腰を掛けた。
「僕は塔矢アキラ、君は?」
「オレの名は・・・
しんどうヒカル」
ヒカルは一瞬躊躇したものの氏名を口にしていた。
ただ小声になってしまったのは不味いかもしれないと
心の中で掠めたからだ。
碁会所の記帳にも名しか書かなかった。
けれど、行き掛かりで対局した程度なら相手も名など気にも留めないだろうと思い直す。
「歳と棋力は・・・?」
「13歳、棋力は・・よくわかんねえよ」
「僕も13なんだ。棋力がよくわからないのだったら
石置いて打つ?」
「いいよ、同じ歳だったら石なんて置かなくても」
「そう・・・」
ヒカルが黒を握り、先番になる。
ヒカルは斜め後ろを振り返った。
『ほら佐為、存分に打っていいぜ』
ヒカルに言われるまでもなく佐為は待ちきれないばかりに
初手を示した。
「負けました」
震えるその声にヒカルは顔を上げた。
「えっ、もう?」
顔を下げたままのアキラは負けた悔しさが滲み出ていた。
ヒカルは改めて碁盤に目を戻す。
そこには佐為とアキラが対局した軌跡が今も残る。
アキラは強かった。
ヒカルでは思いつかないような手ばかりだった。
それに返す佐為の手にもしびれたし、いつしか夢中になって
いたのだ。
次はどうするのか、どう返すのか。
そうしてヒカルは
これが本当の佐為の実力なのだという事に気づく。
アキラがこれほどに強くなければ気づく事もなかっただろう。
もっとこの二人の対局をヒカルは見ていたかった。
「お前すげえ強いんだな、ちっと驚いた」
アキラが僅かに顔を上げる。目じりには悔し涙が
滲んでいた。
それを見せないために顔を落としていたのだ。
『ヒカル、それは敗者に掛ける言葉では・・・。』
佐為に言われて失言だったことに気付く。
「君は!!」
アキラは『バン』と机を叩いて立ち上がり、そしてヒカルをまっすぐに見据えた。
次の瞬間怒鳴られるかと思ったがそれは違った。
「進藤くん、君の名は覚えておく。また対局を申し込んでもいいだろうか?」
「ええっ?ああ、また今度な、」
曖昧に返事してヒカルは胸をなでおろした。
アキラを怒らしてしまったかもしれないと思ったからだ。
石を早々に片付け、ヒカルは立ち上がった。
「オレ疲れたから今日はこれで、アキラ対局してくれてありがとうな」
アキラは深々と『ありがとうございました』と頭を下げた。
それにヒカルも会釈して応える。
立ち去ろうとしたら、市川がヒカルを呼び止めた。
「君、囲碁に興味あるんだったら、こんな大会もあるわよ」
ヒカルは反射的に差し出されたパンフレットを受け取り
それを見ることなく鞄に押し込んだ。
ちらっと振り返り見えたのはまだ落胆し、碁盤を見つめるアキラ
だった。あの場では取り繕っても、負けた悔しさは拭えていないのだと思う。
「ありがとう、でもオレにはまだそういうのは早えみたい」
小声でそういったのはアキラの気持を組んでだ。
「あら、そう?」
「今日はありがとうございました」
ヒカルは扉をあけるとそこから逃げるように階段を下りた。
階段を下りそのまま近くの地下鉄の入り口も駆け下りた。
その頃にはすっかり息が上がっていた。
「ヒカル、そんなに慌ててどうしたんです」
後ろから追いかける・・と言っても佐為は苦もなく
ついてくるだけなのに、なぜか息が上がっているように
見えた。
ヒカルはようやく人気のない角まで来て立ち止まった。
「なんとなくあの場に居たくなくてさ、
佐為もどうにかなんなかったのかよ?」
「どうにかとは?」
「だってあいつあんなに落ち込んでたじゃねえか」
ヒカルが言いたかったのは、もっと上手く勝つ方法は
なかったのかと言う事だ。
「ヒカル、アキラくんを侮ってはいませんか?」
「侮ってなんかねえよ。あいつすげえ強かった」
「ええ、あの少年、塔矢アキラは強かったです。私が現世でよみがえってから
今まで対局した相手の中で恐らく一番・・・。」
「そんなにか?」
「だから手を抜けなかったのです。それに私の知らない手もありました。おそらくこの150年の間に研究された新手なのでしょう」
佐為は自分の知らない手筋や新手があった事が嬉しいそうだった。
ヒカルと同じ歳で、佐為が『手を抜けなかった』相手、
塔矢アキラ。
ヒカルもその名を覚えておこうと心に思う。
「そうか・・・、なあ帰ったらさ、今の碁検討してもいいか?」
「もちろんです。やりましょう!!やりましょう!!」
佐為は帰ったらすぐにも始めそうな勢いでヒカルより先に走り出す。
「佐為、その前に飯が先だからな」
すっかり忘れていた腹の虫が『ぐ〜』と鳴った。
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