翌朝、緒方がヒカルの部屋を去ってすぐ、ヒカルが一人で考えを廻らせる
前に筒井が顔を出した。
「おはよう、布団上げにきたよ」
筒井が昨夜緒方の為に敷いた布団は使われる事なくそのまま畳まれ押入れへと
片付けられる。
緒方との行為が残っていることが恥ずかしくて、ヒカルは布団に顔を押し込めた
が筒井はそんな事気にするそぶりもない。
布団を上げる筒井が不意に声を上げた。
「これヒカルくんの下緒?」
『えっ?』
筒井が持ってきた布切れをヒカルは起き上がって受け取った。
見ただけでそれが何かわかり、ヒカルは心が震えていくのがわかる。
確かめるまでもなかったが裏返せば、血の滲んだ後があって
ヒカルはそれがアキラに渡したものだと確信した。
『なぜこれがここに?』
思わずヒカルはそれが落ちていたという押入れをみた。
確か押入れの繋がる隣の部屋は物置部屋だったはずだ。
まるで昨日の緒方との行為をアキラに見られていたような気がして
目を伏せた。
ヒカルの中に疑念が浮かび上がる。
「体調が良くないのかい?」
筒井が部屋に居たことを思い出し何でもないと首を振り、必死に笑顔を装う。
「汚れているなら洗っておこうか?」
一瞬手渡そうとしてヒカルはやっぱり出来ずに、『いい』と断った。
ようやく筒井がヒカルを気にしながらも出て行った時、ほっとしたと同時にヒカルは
抑え込んでいた感情が溢れ出て、言葉にならない声を上げた。
『ずっと持っていると言ったじゃないか、永遠に魂は一つだって約束したのに
なぜこれがここにある。
諦めると言ったのは本当なのか!!!』
ヒカルは布団を掴かみ嗚咽した。
『お前だけじゃない。オレだって・・・』
ヒカルは情欲に流されアキラへの想いを売ってしまった自分に腹立ち自己嫌悪に
陥った。
緒方が言った『塔矢アキラもお前を諦める』・・・
その言葉が今も耳につき、ヒカルは耳を塞ぎ頭を振った。
それでも幻聴が語りかけてくるようだった。
『アキラ、オレを助ける為になのか?』
アキラの事だから自分の保身を考えてそう言ったとは思えず
それでもやるせなさに身が引きさかれそうで、
ヒカルは含んだアキラの血をその身に確かめるように、下緒を握りしめ必死で
アキラと交わした約束にしがみ付こうとした。
それでも疑念は消えなかった。
ヒカルにはアキラがそれをここに置いて行った理由を推し量ることが出来なかった。
緒方が芦原と冴木を呼んだのは日も暮れてからだった。
「国に帰る日取りだが7月20日にする」
芦原はその意図に気づき顔色を変え、声を上げた。
「殿待ってください。せめてもう2〜3日お待ちください」
「ダメだ。もう決めた」
「恐れながら、20日は佐為殿のお城碁の日だと伺っています。せめて
後1日ヒカルに猶予を下さい」
「お前は塔矢アキラが勝つと思っているのか?」
「やってみなければわかりません」
「佐為が負けてオレがヒカルを手放す事を望むか!!」
「そんな事は言っておりませぬ」
芦原は尚も食い下がった。
「ですがどうかお願いです。せめてヒカルに見届けるだけの時間をやって下さい」
「ヒカルはもうあんな奴の事など思ってはおらん。一時の気の迷いだ。
それをあちらが一人で勝手に思い上がっただけの事だろう」
緒方はそう言ったが、そんなはずなどないと芦原は心の中で思った。
ヒカルは命に賭けてもアキラを守ろうとしたのだ。
ただ緒方はそう言った事に抜け目がない。
ヒカルに畳み掛け、諦めるよう仕向ける事など緒方には容易いだろう。
けれどそれがヒカルの本心とは思えなかった。
「恐れながら申し上げます」
芦原と緒方とのやり取りを今まで聞いていた冴木が声を上げた。
「塔矢アキラに切腹を言い渡したのは殿でございます」
冴木は敢えてアキラが勝負に勝った時の事は口にしなかった。
「それを見届けず、江戸を去るとは全くらしくなく。
駿府の評判が落ちます。
私からもこの勝負最期まで見届けてから帰られることを申し上げます」
冴木の言い分は最で流石に緒方も折れる他しょうがなかった。
「しょうがない。出立は21日にする。但し塔矢アキラの事はヒカルには伏せておけ。
絶対に耳に入れるな」
「はい」
2人はそれに丁重に頭を下げた。
だが、ヒカルの耳に入れるなと言うが、こういう噂はすぐに江戸に出回る。
国に帰ればいざ知らずだが、家臣の誰もの口を止めると言うのは流石に無理だ。
そしてこんな事を芦原が思ったのは、ヒカルに知って欲しいと思ったからだ。
緒方がどんなに隠そうとしても、真実は伝わる。その時ヒカルがどうするか芦原
にはわからないが、それでもそう願ったのだ。
緒方の部屋を後にして芦原が冴木に言った。
「冴木くん今日は助かった。ありがとう」
「礼を言われるような事はしてないさ。それよりオレはお前の方が心配だ」
芦原は冴木の言葉に首をかしげた
「2人に加担して緒方様を怒らせてしまうんじゃないかって」
そこにはただ怒らせるだけじゃない。冴木は芦原の首が飛ぶかもしれないと
言っているのだ。
「僕がヒカルをここに奉公を勧めた手前もあるのだけど。あの二人を見ていると・・・
放っておけないというか。手を差し伸べたくなるっていうか」
「ああ、わかるかも、
あれだけの事をしたのに他の家臣からもあまりヒカルの悪口や
陰口を聴かない。本来なら、『不忠義者だ。さっさと切腹させろ』と言う者が
いても可笑しくないだろう?だが、一人としてオレはそんな事言うやつを知らない」
「ああ、ヒカルが殿にとって大切な人だと皆知ってるからだろ」
「それにヒカルがそれだけ愛されてるって事もだろう」
芦原も冴木も家臣としてではなく緒方がもう大切なものを失う姿は見たくなかった。
もしそんな事になるのならわが身を捨てても構わないと思う程に二人は緒方に
忠誠を誓っている。
ただそれはヒカルとアキラに幸せになって欲しいと願う芦原には矛盾したことだった。
芦原はそんな矛盾に気づき苦笑して、前を歩く冴木を呼び止めた。
「冴木くん、今宵は僕に付き合いたまえ」
「付き合いたまえ?!」
芦原の妙な言い回しよりも別の意味を孕んだその言葉に、冴木はぎょっとして固まった。
そんな冴木に芦原は声高く笑った。
「酒に決まってるだろ。オレの事心配してくれたお礼に驕るよ。ほらほら」
冴木は断わる間もなく急かされるように芦原に背中を押された。
その晩冴木は夜通しの酒に付き合わされた。
29話へ
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