ひかる茜雲


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7月にも入りヒカルの容態も随分落ち着いた頃、佐為が緒方邸に訪れた。
報告を受け出迎えた緒方は驚きを隠せなかった。


「佐為お前はもうここには来ないかと思ったが」

「どうしてです?」

「オレと塔矢アキラとのやり取りはお前の耳にもすでに届いてるだろう」

「だからここに来たのです」

「撤回しろとでも?」

「貴方もアキラ殿も私がそんな事を言った所で引くのですか?」

普段の優しい微笑みを纏った佐為ではなかった。立腹など通り越してる。
緒方はふっと溜息を洩らした。

「お前はどんな事もすると言ったではないか」

「ええ」

先日対峙した時よりも険しい佐為の表情に緒方は顔を曇らせる。

「弟子の為に最初から勝負を捨てるつもりはないだろうな」

「いいえ、その様な真似は碁打ちとして絶対に致しません」

佐為はそう言った後、ゆっくりと緒方を見据えた。その瞳はまっすぐで
曇りはなかった。

「アキラ殿が命を張ると言うのであれば、私もこの勝負その覚悟で臨むまでの事。
それが出来なければ師としてこの勝負に応える事は出来ません」

佐為は静かにそう言い放つと緒方に頭を下げた。

「この様な命を懸けた勝負を与えて頂いた事、緒方様に感謝します」

「佐為、お前!!」

緒方はぎりり、と歯を噛んだ。
塔矢アキラなどに後れを取るとは思えないが佐為は本気だ。

「なぜ、どいつもこいつもそう死に急ぐ・・・・」

「今日はヒカルに会う事をどうかお許しください」




思い通りにならない事ばかりで、緒方の心は荒れ狂うばかりだった。
だが、その心の奥底にぽっかりと空いたものは寂しさだと感じている。

塔矢アキラが負けて自害したとしてもきっと緒方にはただの後味の悪さしか
残らない・・・・。
ヒカルを想えばそんな事はわかりきった事だった。

それがわかっていても引くに引けぬのはハナから負けを認めたくないからだ。
緒方はこんなにも不器用な自分を知らなかった。

「いいだろう」

緒方は苦虫を噛んだように佐為に言った。

「ただし、件の事は口にするな」

「承知しております」

そう言って立ち上がった佐為の長い髪が緒方の目の前でなびく。
それは緒方が覚えている中で一番美しかった。

「お前の健闘を祈っている」

「ありがとうございます」

佐為もう1度緒方に会釈した。






ヒカルの容態はこのころには随分良くなり仕事もこなせる
ようになってきていた。
舌の縫合でロレツがうまく回らないことはあったが、それでも意思疎通が
出来るまで回復していた。

佐為がこの日屋敷に来たことはヒカルの耳にも入っていた。

「ヒカルくん、佐為様が奥の間でお待ちだそうだよ」

「あっうん、ありがと」

呼びに来た筒井に礼を言ってヒカルは立ち上がる。
そわそわして待っていたヒカルだったが、いざとなると足が重かった。

佐為はヒカルとアキラの事を緒方から聞いているだろう。
ヒカルの事を恩知らずだと怒っているかもしれなかった。

佐為はヒカルが道場に通えるよう、また江戸に残るよう取り計らってくれた。
何よりもヒカルに跡を継がせたいとまで思ってくれていたのだ。
(もっともそれは直接佐為から聞いたわけではないが)

佐為に会いたいし、いろいろ話もしたい。

もしかしたらアキラから何か聞いてるかもしれないし、逆にヒカルの言葉
を伝えてもらえるかもしれなかった。
この下緒の事も・・・。

ヒカルはどうしてもその下緒を手放す事が出来なかった。
ヒカルは袂に入れていた下緒を確かめるように握った。
纏らない頭のままヒカルは奥の間へ向かった。



奥の間の前には芦原がいた。

芦原は佐為とヒカルの会話の監視を緒方から言われていたが、そんな野暮
な事をするつもりはない。
体裁だけで報告は適当にしておけばいい。

「ヒカルくん、佐為様がお待ちだよ」

「あ・りがとうございます」

ヒカルが部屋に入るのを見届けると芦原はその場からそっと立ち去った。

碁盤に向かって座っていた佐為はヒカルの姿をみつけて立ち上がる。
碁を打っていたわけじゃなさそうだった。

「ヒカル!!」

佐為の表情が泣き笑うように崩れ、ヒカルを抱きしめる。

「えっさっ・・・!?」

「こうやって直接会うまで心配で堪らなかったのです」

やはり自分とアキラの事を佐為は聞き及んでいるのだと思うとヒカルは自然に
頭を垂れた。

「ごめんなさい」

「どうして謝るのです?ヒカルは何かやましい事をしたのですか?」

ヒカルはアキラとの事を思い出し、顔を真っ赤にした。

「ごめんなさい・・・ごめんさ」

何度も謝罪するヒカルを佐為は抱きしめるとぽんぽんと背を撫でた。

佐為はもうそんな事すべて許してくれていたんだと思う。
だからそんな佐為だからヒカルは謝っても謝りきれなかった。
佐為はヒカルが落ち着くのを見計らって腕から解放した。

「こんな所を緒方様に見られたら怒られてしまいますね」

佐為はおどけたように言うと、碁盤を示した。
部屋には碁盤と碁石、それに対局者の為の座布団とお茶菓子の
用意されていた。

「ヒカル打ちましょう」



石は最初から置かなかった。
ヒカルも置こうとしなかったし、佐為もそのつもりだったのか何も言わなかった。

まもなく終盤になるころ、ヒカルはどうしたって足りない事を悟って碁笥の石を握った。
投了時だろう。

「ここまでですか?」

「ああ、もう・・・。」

不甲斐ない思いはあまりなかった。佐為とここまで打てるようになった。
まだまだだけど、4か月前に初めて対局した時より、成長してる。

石を片付けようとして、動かない佐為に気づいて顔を上げた。
佐為は今にも泣きだしそうな顔をしていた。

「佐為どうした?オレの碁ひどい碁だった?」

「いいえ、強くなったなと」

佐為にそう言われると素直に嬉しい。

「けど、まだまだだ。これじゃあアキラに勝てない」

自然と口に出たアキラの名に胸がドクンと鳴った。
その名は口に出してはいけないことのような気がしていた。
だからこの屋敷でけっして口にしなかった。
心で何度も「その名」を呼び続けても・・・。

「私はこの20日のお城碁でアキラくんと対局します」

佐為の言葉に驚いてヒカルは佐為を見上げた。

「えっ?アキラとお城碁って?」

「行洋殿がまだ病床なので、代わりにアキラくんが登城するのです」

羨望と同時に心の中でどこかほっとする自分がいた。
たぶんオレの選択は間違ってなかった。

けれど・・・・。胸が苦しくなる。
アキラにまた遠く離されたような気がする。

それでも心は一緒にあると信じていいのか?
オレは・・お前を想い続けていいのか?

脳裏にあるアキラに呼びかけても答えはなく
ヒカルはアキラの笑顔を思い出し、顔を伏せた。

「ヒカル?」

心配そうに佐為が顔を覗きこみヒカルは取り繕った。

「そっか、ってあいつやっぱすげえよなっ。
けど流石に相手が佐為だとアキラでも分が悪いよな」

ヒカルが乾いた笑いを浮かべると佐為は首を振った。

「勝負はやってみなければわかりません」

真顔でそう言った佐為にヒカルは慌てて訂正した。

「ちゃ、茶化したわけじゃないんだぜ。けど羨ましくって、
2人ともなんかオレの手の届かない所に行くみたいで・・・って
オレ何言ってんだろ?」

無言の刻が流れヒカルは言葉を探した。

「佐為お城碁でアキラと打った棋譜オレに見せてくれよ。
と言ってもオレ21日に駿府に経つから無理かな」

「いいえ、約束します。ヒカルにアキラくんと打った棋譜を必ず見せます」

「本当か?」

「ええ、駿府はこの江戸からも近く歩いても7日もかかりませんし。
だからヒカルも約束してください。何があってもどんな時もアキラくんを信じて
あげてください」

なぜ今、アキラを信じることが、佐為の口から出たのかヒカルにはわからなかった。
けれどヒカルはずっと誰かにそう言って欲しかった。

「うん、オレあいつの事信じてる」

心の底から湧き上がってくる想いに涙が溢れそうになり、鼻をすすった。

佐為は微笑むと碁盤を挟んだヒカルの頭を撫でてくれた。
いつものように。

「また会いましょう」

「ああ」



ヒカルは佐為を見送るため、廊下を出た。
また会えるといえ、次はいつ会えるかわからない。
何か気の利いた言葉を探しても思いつかなかった。

それでも佐為の背にヒカルは呼びかけた。

「あの・・・佐為、オレ待ってるから」

佐為は振り返らなかった。

「伝えておきます」

伝える?誰に、何を・・・?

聞き返すことが出来ないまま去って行く佐為の背をヒカルはずっと見送った。

                         
         







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