ひかる茜雲


                            14

       

     
アキラのいない道場はまるで火のない家のようにヒカルには感じた。

その日屋敷に戻ったヒカルを小姓部屋で待っていたのは芦原だった。

「緒方様がお待ちかねだよ」

芦原と共に緒方の部屋に行くと緒方が待ちかねたように
立ち上がった。

「待ってたぞ、ヒカル」

緒方に芦原、普段よりも改まった雰囲気にヒカルは膝を
ついて頭を下げた。

「遅くなりました」

「よい、顔を上げろ、今日はお前に渡したいものがある」

ヒカルは顔を上げた。
一本の見事な太刀を緒方はヒカルの前に差し出した。
ヒカルは太刀など触れた事もなかった。緒方の太刀でさえ今の
時代小姓は持つ事などない。

「緒方様これは?」

「お前にくれてやる」

あまりに突然の緒方の申し出にヒカルは戸惑い芦原の顔をちらり
と見た。

「殿が仰せなのだから、ありがたくもらったらいい」

ヒカルは小さく頷くとそれを受け取った。

「ありがとうございます。生涯大事にします」

「ああ」

満足そうに笑った緒方にヒカルはけれど、と首をかしげた。
主から「太刀を頂戴する」のは、家来にとって名誉な事だが
ヒカルには解せなかった。ヒカルは褒美をもらえるような手柄を立てた
わけでもない。

「でも一体どうしてオレに?」

「お前は士の出身ではないからな。
オレはお前に侍としてこれからいろいろと学んで欲しいと思ってる。
碁もその一つだと思えばいい。
このご時世だ、オレはお前に戦に出ろとも太刀で人を殺めろなどと言う
気もさらさらない。
だが、心構えだけは侍として、オレの小姓だという誇りを忘れるな。
それはその為の太刀だ」

緒方は力強くヒカルにそう言った。ヒカルは急に太刀が重くなったような
気がした。
芦原がヒカルの緊張を解すように言った。

「実は殿が駿府に戻るのが予定より早くなりそうなんだ」

ヒカルは緒方が国に戻るのはこの秋ごろだと聞いていた。

「何時ごろですか?」

「最後の登城を終えた7月ごろには、江戸を立とうと思う」

そんなに早く・・と思ったがそれは言えなかった。

「いろいろあってな、
オレは江戸の町も好きだが、やはり自分の国の方が落ちつく。
お前にはオレの国を城下を見せたい。きっと気に入る」

緒方に付いて駿府に行くのはある程度覚悟していた事だった。
だが、今のヒカルの心はまるで重石を抱いたように重かった。
腕に抱くこの刀のように・・・。

「オレなんかに勿体ないです」

「駿府に帰る前にはお前にも暇を取らせる。家族や会いたい
ものもいるだろう」

緒方の言葉にヒカルはぼんやりと頷いた。




部屋に帰って緒方から貰った刀を部屋の片隅に下ろした。
両親に報告したらきっと喜んでくれるだろうとぼんやり思い、
ごろんと床に寝転がった。

今日1日でいろんな事があった。

まるで昨夜佐為とアキラと花火をしたり、枕を並べた事がすでに
遠い日のようだった。

『オレ3か月後には駿河に行くんだな』

駿河と言うところがどんな所か今のヒカルには想像することも出来
なかった。生まれてこの方、江戸の町すら出たことがないのだ。
ヒカルは胸が苦しくなり、うづくまるように体を丸めた。

緒方様に国に連れて行ってもらえるのに。
家臣として認められたのに・・・。
なぜこんなに心が揺れるんだろう。

ヒカルはせめてと祈る。
アキラの父 塔矢行洋が無事であることを、そしてアキラにまた
会える事を・・・。







それから1週間後ー

その日はヒカルは佐為の屋敷に行く日であったが、佐為の方が緒方の
屋敷に来ると言うのでヒカルは行けなかった。

あれからアキラの事もアキラの父の容態もヒカルには耳に届いていない。
部屋で待機しながら気が気でなく、でも早く佐為に会って真相を聞きたい
思いで、祈るように待った。

ヒカルが呼ばれたのは昼を過ぎた頃だった。

「ヒカルです」

「入れ」

緒方は渋い顔でヒカルを迎え入れた。ヒカルはちらりと佐為を見た。
佐為の様子は普段と変わらず、それだけではヒカルはアキラの事を
計る事は出来なかった。
だが緒方がいるのにアキラや塔矢行洋の事を聞く事など出来そうに
なかった。

「ヒカル、石を持て」

「はい」

佐為が席を譲ってくれる。だがそれは上座でヒカルは面食らった。
だが、緒方はそんな事は気にしないようで、ヒカルを急かすように碁笥を
渡してきた。
やむなく腰を下ろす。

「お前と打つのは久しぶりだな。佐為の元に通った手並みを見せてみろ」

「はい」

ヒカルは石も置くことなく打ち始めた。

緒方はやはり強い。どう仕掛けても今のヒカルではヒラリとかわされて
しまう。
だが、仕掛けなければヒカルには勝機がなくヒカルはその手を放った。

緒方がふと手を止めた。
そしてふっと笑うように息を吐いた。

ヒカルは顔を上げた。
緒方は笑っていた。

「あの緒方様?」

「ヒカル、お前は江戸に残りたいのか?」

「えっ?」

ヒカルは何と答えて良いかわからず言葉に窮した。

「本音を言ってみろ」

「出来れば・・・佐為の元で・・・。」

声が萎む。

「そうか・・。」

そう言った緒方にヒカルは縋る思いで言った。

「でもオレ緒方様と一緒に駿河に行けたら・・・」

「ヒカル」

ヒカルが最後まで言う前に緒方が言った。

「2年間だ。
オレが次に江戸に登城して駿府に帰るまでの間待ってやる。」

「それって?」

「お前は江戸に残って佐為の元で碁の勉強に励め」

「緒方様・・・ありがとうございます。オレ・・・オレ」

ヒカルはあまりに嬉しくて、感極まって涙が溢れてくるのを抑える事が
出来なかった。

ヒカルは思わず佐為を見た。・・・がそこに居るはずの佐為はいなかった。

「あれ、佐為は・・・」

「気づかなかったのか?とっくに帰ったぞ」

「ええっ?」

緒方に言われるまでヒカルは気づかなかった。
この喜びを伝えたかったのに、ヒカルは少し残念な気もした。
けれど佐為はきっと知っているのだろうと思う。
緒方にヒカルを江戸に残すよう進言したのは佐為なのだろうから。

ヒカルは緒方にもここにいない佐為にも深々と頭を下げた。
そうする他わからない程、緒方に感謝したし、それを表現するすべを
今のヒカルは知らなかった。

「顔を上げろ」

緒方に言われて顔を上げたヒカルの顔は涙でくしゃくしゃになっていた。

「かわいい顔が台無しだな」

そう言った緒方は含み笑いした。

「悪いが今回の事はオレは下心がある。それは許せ」

「許せってオレが緒方様をですか?」

「ああ、そうだ」

ヒカルは感謝するばかりで緒方を許せないような事など決してなかった。

「今晩、お前が勤めだったな」

ヒカルはそれに頷いた。

「なら、風呂に入り、身を清めてから来い。オレの伽の相手をしろ。
それで大目に見てやる」

ヒカルは緒方に何を言われているかさっぱりわからなかった。

「さて、石を片付けるぞ。夕刻までは筒井に代われ、
それからこの事は芦原には言うなよ。あいつには・・・そうだな。
事後報告で十分だ」

ヒカルは何をと問う事も出来ず、頷いた。


                      

                                   15話へ
     
                         
         








目次へ

ブログへ