その晩3人は佐為の寝間で布団を並べた。ヒカルが真ん中で
右にアキラ、左隣りに佐為が横になる。
部屋の灯りを消した佐為がアキラに忠告した。
「ヒカルは寝相が悪いですから、アキラくんも気を付けた方がいいですよ」
まだ一度しか佐為と一緒には寝ていないが佐為はヒカルの寝相の悪さ
をすでに知っているようだった。
「はい。気を付けます」
笑いを含んだ返答にヒカルは思わず声を上げた。
「気を付けるって、アキラが気を付けてもさ、オレが気を
つけるんだろ?」
「ヒカルは寝てしまったら気を付けることもできないでしょう」
『そんなのお互い様』だとヒカルが怒鳴ると佐為とアキラが声を立てて笑った。
2人ともヒカルをからかったのだ。
「ちえ、佐為も佐為だよ。緒方様みたいに・・・」
言いかけてヒカルは口をつぐんだ。
先日の夜勤めの事はヒカルには未だわからなかったが、あれは
きっと寝相の悪いヒカルを緒方が諌めたのだと結論づけていた。
「どうかしたのですか?緒方様って」
まさか緒方と一緒に寝ているとは言えず、ヒカルは誤魔化した。
「いや、あの何でもない。それより佐為はよく誰かとこうやって寝るのか?」
先日ここに訪れた時もごく自然に佐為はヒカルと枕を並べた。
今日も当たり前のようにそうだった。
「いいえ、私はいつも一人ですよ。
そういえば、以前塔矢行洋殿とこうやって布団を並べて寝た事が
ありましたね」
「父とですか?何時ごろの事でしょう?」
意外だったのだろう。アキラは驚いたようだった。
「そうですね、10年以上前になるでしょうか。
アキラくんがヒトツの頃です。
行洋殿が1歳になる息子が得意げに碁盤に碁石を置いて遊ぶのだと
言ってました」
ヒカルはいかにもアキラらしい気がして噴出した。
「アキラの事だから、生まれてきた時から石握ってたんじゃねえのか?」
「君は失敬だな」
そう言ったアキラの声は怒りを含みながらも笑っていた。
「それで、なぜ佐為様は父と一緒に泊まったのですか?」
「あの日は当時『碁所』だった、桑原様の屋敷で集いがあった
のですが、あいにく朝から酷い雨と風で、台風が来ていたのです。
私と行洋殿は雨風が収まったものと思って、桑原様の屋敷を出たのですが
雨脚と風がひどくなって行くも戻るも出来なくなって、やむなく近くに
あった宿を取る事になったんです」
「そんな事があったんですね」
しみじみとそう言ったアキラは今は離れて暮らす父や母を思っているのかも
しれない。
「なあ、それでアキラの親父ってどんな人なんだ?」
興味津々のヒカルにアキラは返答に困ったようで、佐為が代わりに応えた。
「まっすぐで凛としていて、誰をも寄せ付けぬ強さを持った方です」
ヒカルは佐為のその表現では今一つ想像出来なかった。
「強さって囲碁だけじゃなくて?」
「ええ、心も強い方なのだと思います」
「よくわかんねえけど、アキラみたいな感じなのか?」
それに佐為は苦笑した。
「そうですね、アキラくんは行洋殿によく似ていると私は思います」
アキラは罰が悪いのか、小さく咳払いする。
「10年前のあの頃と言えば、私は本因坊家の出自といえまだ駆け出しで
行洋殿は憧れの存在でした。対局ですら緊張しましたから、一緒に寝るなんて
とんでもなくて、あの時は何か粗相でもしたらどうしようかと思って、夜寝る事も
できませんでした。
それこそ自分ではどうにも出来ない寝相のように・・・。」
ヒカルはまるで、緒方の小姓をする今の自分のようだと思った。
「でも嬉しかったのです。そうやって行洋殿と同じものを見て、お話できた事が。
あれから何十局と行洋殿とは対局しましたが、今もその気持ちは変わりま
せん」
「うん、それってわかる気がする。オレ佐為とアキラの親父の棋譜
見た時、わくわくした。こんな対局をする人がいるんだって憧れた。
オレも打ちたい、もっと強くなってあんな棋譜を並べたいって」
ヒカルは筒井に借りた棋譜を初めて並べた時の興奮を思い出す。
いや、今だってあの棋譜を思い出せば胸が高鳴るようだった。
「ありがとう、ヒカルにそう言って貰えるとすごく嬉しいです」
その後一瞬躊躇したようにアキラが言った。
「父も・・・佐為様の事を一目置いてます」
佐為は静かにほほ笑んだ。一瞬の間が流れる。
「ふふ、そうですか?それもとても嬉しいです。
さあ、遅くなりましたね。今日はもう寝ましょう」
まだまだ名残惜しい気持ちがある。もっと佐為とアキラと話たいのに、
花火と同じように楽しい時間はいつもすぐに終わってしまう。
でも明日起きればまた佐為と、アキラと対局出来るのだ。
いつまでもこうしていられない事はわかっていても、それはまだまだ
先の事だとヒカルはこの時思っていた。
翌朝、まだ日も明けぬ時間にバタバタと佐為の部屋に慌ただしい
足音が響いた。
「佐為様、朝早く申し訳ありません」
格子戸の向こうのくぐもった声をヒカルは夢の中で聞いた。
『塔矢様の屋敷から急ぎの使いがございました』
アキラもすぐに起きたようだった。
「何かあったのですか?」
一瞬使いの声が躊躇した。
「塔矢行洋様が倒れられた、と」
傍らにいたアキラが息を呑んだのがわかった。
ヒカルもそれで一気に睡眠が覚醒した。
「わかりました。すぐに屋敷に戻ります。すみません、
佐為様、お世話になったのにお礼も出来ず」
「何を言うのです。今は行洋殿の容態が心配です。
後の事は気にしないで下さい」
そういうとアキラは簡単に身支度を整えた。
部屋を出る前にアキラは一旦振り返った。
ヒカルはアキラに何と声を掛けたらいいのかわからなかった。
「また」
アキラはそれだけしか言わなかった。
「うん」
アキラにも負けない程短い返事を返しヒカルは布団をぎゅっと握りしめた。
部屋を後にしたアキラの背をヒカルはただ見送ることしか出来なかった。
あまりにもあっけないアキラとの別れだった。
14話 |