翌日、ヒカルは新橋辺りに詳しいという下人を伴って佐為の屋敷に向かった。
供を伴うなど今のヒカルには恐れ多かったが、場所が分からない
のでやむ得ない。
佐為の館屋敷まで来てヒカルは付き添ってくれた下人に丁寧にお辞儀した。
「送ってくれてありがとう。帰りは一人で帰れるから、」
「へえ、でも」
下人は困った顔をしていたが、ヒカルは自分一人の事でこんな
所まで煩わせるのは申し訳なかった。まして付き添ってくれた
下人はヒカルよりもずっと年上であったし。
「明日は遅くなると思うし、本当に大丈夫だから、じゃあ」
下人と別れてヒカルが佐為の屋敷に入る前に門番が出てきた。
「進藤ヒカル様ですか?」
「えっ、はい」
「さま」などと呼ばれた事などなく、ヒカルはこそばゆいような恥ずかしい
ような気持ちだった。
「お待ちしておりました。どうぞ」
門番に恭しく屋敷内に案内される。
それほど広くはないが、行き届いた庭を見回せるように
続く廊は季節折々の趣向が凝られていた。
今は春先で梅が庭先を彩、筍子が頭を覗き、小さな人工池には
メダカが泳ぐ。
それに見惚れながら進むとその先に佐為の姿があった。
遠目からでも佐為だとわかるほどの気品と佇まいがあった。
佐為はヒカルと同じくらいのおかっぱ頭の少年を伴っていた。
その少年は佐為と同様育ちの良さを感じる品と立ち振る舞いをしていた。
「よかったです。私が出かける前にヒカルが来てくれて」
「えっ?佐為様出かけるんですか?」
せっかく来たのに佐為が出かけるなんてヒカルは残念だった。
「ごめんないさい。私はこれから指導碁に出かけますが、
夜には帰ります。ヒカルは今晩はここに泊まれるのでしょう?」
ヒカルが頷くと佐為が微笑んだ。
「では返ったら相手をします。
その間こちらのアキラ殿にヒカルの事を任せてます。」
それまで佐為の傍らで控えていた少年が深々と頭を下げた。
「塔矢アキラです。よろしくお願いします」
「とうや・・・?」
珍しい名前にヒカルは一瞬あの棋譜の名(塔矢行洋)
を思い出し、まじまじとアキラの顔を見てしまい、アキラに顔をしかめられた。
それでヒカルも慌てて頭を下げた。
「オレは進藤ヒカルです。お世話になります。」
「アキラくんは、塔矢行洋殿のご子息なのですよ」
ヒカルの疑問を感じたのだろう佐為が応えてくれた。
「じゃああの棋譜の・・・名人家とかいう囲碁の?」
それにアキラは小さく顔を曇らせた。
ヒカルが「しまった」と思ったが遅かった。
「ええ、そうです。アキラくんはヒカルと同じ歳ですから、何かと気も合うだろう
と思って。アキラくんヒカルの事お願いします」
「はい」
うやうやしく頭を下げたアキラにヒカルは内心で溜息を吐いた。
佐為はアキラとは気が合うだろうと言ったが
ヒカルは初対面からしてどうにも、アキラは苦手だった。
出掛ける佐為を見送った後、アキラは屋敷の中座敷へヒカルを案内した。
座敷に入る前に立ち止まったアキラにヒカルも足を止めた。
部屋の中からパチリ、パチリと碁石の音が不規則に聞こえていた。
格子戸の隙間から子供たちの姿が見えた。
座敷にはヒカルやアキラのような子供たちがいて、対局したり、棋譜を並べたり、
棋譜を写したりしているようだった。
その様子はまるで寺子屋のようだった。
ヒカルは佐為に学ぶのは自分だけだと思い込んでいた認識が甘かった
事に今更気づいた。
「これがみんな佐為の弟子?」
「佐為様は弟子を取ったりはしない」
嘲笑うように言われてヒカルはムッとした。
「じゃあアキラはどうしてここにいるんだ?」
「僕は・・・」
アキラは言葉を濁した。
「事情があってしばらくここで学んでいる」
その事情は流石にヒカルは聞いてはいけないような気がした。
それにアキラの口調から本当はここで学びたくなかったと
言うニュアンスも感じた。
アキラが計るように部屋に入りその後をヒカルも着いた。
アキラとヒカルが部屋に入ると一斉に視線がヒカルに集まり
対局や作業の手が止まった。
静かだった部屋がざわざわと騒がしくなる。
好奇な視線が痛くてヒカルは視線を彷徨わせて頭を掻いた。
『その子が緒方さまの所の?』『棋力はどのくらい?』
『歳は?』
ひそひそとしゃべり声に交じって聞こえる質問にヒカルはたじたじになる。
よく見ると女の子も数人混じっていた。
「あの、進藤ヒカルです。歳は12歳、
えっと棋力はよくわからねえって言うか・・・。とにかくお願いします」
ペコリと頭を下げると、あちらこちらからくすりと笑われカッと体が熱くなる。
アキラは部屋をぐるりと見回した。
「今手が空いてる人いないかな?彼と対局して欲しいのだけど」
奥の席からまっすぐに手が挙がった。
「だったら僕が打つよ。棋譜の清書終えた所だから」
ざわざわとますます部屋が騒がしくなりアキラが声を上げた。
「静かに、対局中の者もいるんだ」
シンとなった部屋にアキラは小さく溜息を洩らした。
「じゃあ福井くんに進藤君の対局をお願いする。後は空いた人から、彼の相手
をしてください」
ヒカルが要領を得ずにきょろきょろすると
「こっちこっち」と手招きされて席に着くと周囲はみんなヒカルを伺っていた。
静かになった分余計に視線が突き刺さるように痛かった。
碁盤を挟んで福井が小声で言った。
「最初新しい子が来たら、みんなこんな感じなんだ。だから気にしなくていいよ」
「そう・・・なんだ」
ヒカルが視線の痛さを感じたのは初めだけだった。
対局が始まるとヒカルは周りの存在も声も耳に届かなかった。
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