佐為との対局はあっという間であった。
実際にはひと時(2時間)ほどであったが、ヒカルには
そう思えたのだ。
「負けました」
悔しさとともに不甲斐なさが突き上げてくる。
もちろん佐為に勝てるとは最初から思ってはいなかったが
少しでも長く打ちたかったのだ。
ヒカルが顔を上げると微笑む佐為と目があった。
席を立っていた緒方もいつの間にか部屋に持っていた。
「ヒカル碁は好きですか?」
「はい、でもすごく悔しいです」
「悔しいのはいいのです。囲碁が好きかどうかという事です」
囲碁が好きかどうか?ヒカルにはよくわからなかった。
囲碁を打てば時間も忘れるほど夢中になったし、
負けたくないと思うし、負けたら悔しいのだ。
そして強くなりたいと強く思う。
それが『好き』だと言う事にさえ今のヒカルは気づいていない。
佐為は緒方に向き合った。
「緒方様のおっしゃる通りでした。
いえ、もしかしたらそれ以上かもしれません」
「本当か?」
「まだまだ推し量ることは出来ませんが」
ヒカルには二人が何を話しているかわからなかった。
おそらく自分がいない間に持ち上がった話だろうことは
わかったが。
「それで、提案なのですが、ヒカルを私に預ける
おつもりはありませんか?」
佐為の突然の申し出にヒカルは驚いた。
胸がドクンと高鳴り、高揚していくのがわかる。
もし、佐為の元で碁が学べるなら、そう思っただけで
心が躍りそうになる。
だが、緒方は佐為の提案に顔をしかめた。
「預けると言うのはお前の内弟子にすると言うことか?」
「内弟子と言うのは大げさかもしれませんが・・・。」
「ヒカルはオレの大事な小姓だからな。お前とはいえ、譲る
わけにはいかん、が」
そう言って緒方はヒカルを伺った。
「ヒカル、勤めは週に三日、四日だな?」
「はい」
元服していない、小姓は勉学もお勤めのうちと言われ、週3日は
仕事を空けていた。
また勤めのない日は勉学に励むよう努めなければならなかった。
「オレからも一つ提案だが、ヒカルの勤めのない日にお前の元へ
通わせると言うのはどうだ?」
「緒方様が国に戻られるまでの間・・・という事ですか?
私はそれで構いませんが。ただここからだと50町はありますよ」
佐為の言う『国』と言うのは緒方が藩主を務める駿府の
ことだ。緒方は外様大名なので、1年毎に駿河と江戸を
往復しなければならず、後9か月程の江戸の滞在で
国に戻る事になっていた。
それには小姓も数人携えて行くのだと筒井がヒカルに教えていた。
「先の事はまだ考えていないが、」
緒方は試案するように頬杖をついてヒカルをちらっと見た。
ヒカルは話がどんどん進んで行くことに驚いていた。
でも、もし佐為の元に通わせてもらえると言うなら
どんなに嬉しいだろう。
「50町ぐらいオレ通えます。
もしオレの非番に・・・その緒方様が駿府に戻られるまででも、
通わせてもらえるなら、オレ・・・」
ヒカルは感極まって不覚にも泣きそうになった。
そんなヒカルに緒方は笑った。
「いいだろう。オレもお前が強くなるのを楽しみにしてるんだ。
佐為の元に行って勉強して来い」
「はい!」
ヒカルは緒方と佐為に深くお辞儀した。
緒方の元に来てからヒカルには何もかもが夢のような現実だった。
明日の朝は初めて佐為の屋敷に行くという晩、ヒカルは夜勤勤め
の為緒方の元に赴いた。
「緒方様来ました」
「ヒカルか?」
「はい」
『ヒカルか?』と問われたが、緒方はヒカルが来るのを待っていた
ような気がした。
「明日からだな」
それに頷くと寝間支度を終えた緒方がヒカルを手招きした。
「緒方様?」
首をかしげると緒方はここに入れというように布団を示した。
滅相もない、とヒカルが頭を大きく振ると緒方は笑った。
「徹夜で佐為の元へ行くつもりか?」
わざわざ徹夜明けに通う事にしたのは連日で非番にして
もらった為だった。
佐為の屋敷に泊まって来てもよいという許しをもらったのだ。
「でも・・・オレは大丈夫だから」
「いいから来い」
ヒカルが困っていると緒方はやれやれと溜息をついた。
「普通は主に乞われたら喜ぶものだが、お前は違うのだな。
そういう初心なところもいい」
そう言う事を言われると、緒方はヒカルを買い被っているように思えて
困るのだ。
でもそんな買い被りがくすぐったくもあり、緒方の期待に応えたい
という気持ちはヒカルには確かにあるのだ。
ヒカルはおずおずと緒方の寝室に足を踏み入れた
「袴は皺になるから脱いで来い」
緒方に言われるまま、袴を落とし、それを皺にならぬよう掛けた。
そして部屋の火を落とし、招かれるまま緒方の布団に入った。
息が止まるような緊張が走る。
先だってヒカルが初めて夜勤勤めをした後、筒井にそれとなく聞いた
のだが、筒井は夜勤の間は外でずっと待機していると言っていた。
だからヒカルは筒井に緒方と一緒に寝た事を明かせなかった。
緒方は緊張するヒカルをそっと抱き寄せた。
「いつまでも、ずっと今のお前でいろ」
『強くなれ』と言った緒方とそれは矛盾しているような気がしたが、
ヒカルは緒方の腕の中でそれに小さく頷いた。
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