ひかる茜雲


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ヒカルが目を覚ました時にはすでに隣りで寝ていたはずの緒方の姿
はなく、ヒカルは眠気もいっぺんに覚めるほど慌てた。

「緒方さま・・・。」

「起きたかヒカル?」

緒方はすっかり身支度を整えていた。

「ごめんなさい、オレすっかり寝過ごして」

「だから謝るなと言ってるだろう」

「でも・・・」

緒方の身支度を整えるのは小姓の仕事だ。

「これぐらい自分で出来る。それに昨夜も言っただろう。
オレがお前を起こしたくなかったから起こさなかっただけだ。
随分よく寝てたし、寝顔も可愛かったからな」

ヒカルの顔が真っ赤に染まって緒方は声を上げた笑った。
そして逆にヒカルの肌蹴た襦袢を緒方は整えてやる。

「そう言うところもな、
ほら起きたのなら布団を片付けて御簾を上げろ。朝の支度だ」




朝食を終えた後は筒井と交代になる。
勤めを終える頃にはヒカルはほっとしたのか寂しいのかわからない
気分だった。
交代で入った筒井がヒカルに小声で言った。

「夜勤お疲れ」

「筒井さん、棋譜の綴りとひざ掛けありがとう、これ部屋に返しといたら
いい?」

「ううん、よかったらその綴りも膝かけもヒカルくんにあげるよ。
僕は別の写しを持ってるから。
今日はゆっくり休みなよ。
明日まで非番だし、初めての徹夜で疲れたろ?」

徹夜も何も緒方よりも寝てしまったヒカルは筒井にその事実を告げられ
なかった。あまりの失態に呆れられるかもしれない。

そこで緒方が筒井を呼んだ。
手馴れた様子で緒方の身支度を始めた筒井にヒカルはやはり
自分の不甲斐なさを感じずにいられなかった。




ヒカルがとぼとぼと自室に戻る途中、下女中たちの黄色い声と笑い声
が耳に入った。

「今日は佐為の君が来られるそうよ。」

「この間私、佐為の君と目が合ったのよ」

「緒方様と佐為の君ってホントお似合いよね」

「うん、うん、私非番だからこっそり覗こうかしら」

女中たちはそれぞれ思い思いのおしゃべりに花を咲かせている。

「こら、おしゃべりばかりせず仕事なさい」

女中頭の怒り声もどこか含みのある笑い声だった。

「手は動かしてますって」

楽しそうな女中たちの話声がヒカルにはどこか遠くの出来事のようだった。


ヒカルは部屋に戻ってもどうも落ち着かなかった。
狭い長屋暮らしだったせいもあるかもしれないがそもそも一人部屋なんて
今のヒカルには贅沢であったし、寂しい面持ちにもなる。
特に勤めの後はそうだった。

筒井にはゆっくり休むように言われたが昨夜ぐっすり睡眠をとったこともあって
眠れそうになかった。

筒井にもらった棋譜の綴りを開け昨日覚えた棋譜を簡素な
碁盤に並べた。
やはりそれは見事なまでに綺麗な石の軌跡を描いていた。

それは憧れに近かった。
こんな風に打てたらと、強くなれたらと願う。
遠い憧れでも「いつか叶えてみせる」という意気込みはヒカルの心の中に
確かにあって、
それは緒方の「待っている」と言ってくれた気持ちに応えることにもなる。
ヒカルは自然に碁石を握っていた。
碁を打っている間は時間が経つのもあっと言う間だった。



その日ヒカルが呼び出されたのは昼過ぎの事だった。

「ヒカルくん、寝てる?」

ヒカルの部屋を叩いたのは筒井だった。

「ううん、起きてる」

ヒカルは戸の向こうに声を上げた。

「よかった。緒方様からの直接のご指名なんだ」

「わかった」

ヒカルが出て行こうとすると筒井が「ちょっと待って」とヒカルに声を掛けた。

「髪も服も乱れてるよ。粗相になるといけないから」

筒井はヒカルの衣類と髪を直してくれた。
ヒカルには筒井のような気配りはできなかった。

「ごめん、オレこういうの今まで気にした事なくて、きっとすごい粗相ばかり
してると思う」

それに筒井が笑った。

「そんな事ないと思うけど。緒方様ヒカルが来てからすごく楽しそうだよ。
それから今佐為様が来られてて、緒方様と対局中だから静かに入室して
緒方様に控えて欲しいんだ」

「わかった」

「夜の勤め明けので疲れてると思うけど、」

筒井に言われた通りヒカルは声を上げず静かにその部屋に入った。
ヒカルが部屋に入室しても対局中の二人は気づかなかったのか
盤面から目を逸らさなかった。
それに少し安堵してヒカルは緒方の後方に控えた。

対面の緒方の対局相手にヒカルはドキリとした。
紫がかった長い髪と美しい瞳が盤面を見つめていた。
立ち振る舞いから高貴で優雅なとても綺麗な人だった。

その人の指が碁盤に石を打つ様はそれ以上に美しくヒカルは一瞬で
目を奪われた。

緒方とその人の打つ碁にヒカルはただ魅了されたように動けず、石の軌跡
だけを追っていた。





対局を終えた2人がようやくヒカルに気づきこちらに目を移した。
ヒカルは自分がどうにもこの場にそぐわぬような気がして困って
俯いた。

「彼が緒方様の言ってた少年ですか?」

「ああ、ヒカルだ」

ヒカルはどうやら自分が2人に話題にされていたようだとわかって
恥ずかしくなった。

「また随分かわいい小姓さんですね」

「そうだろう、オレ好みだからな」

そう言った緒方に苦笑して佐為はヒカルを見た。

「私の名は藤原佐為といいます。以後お見知りおきください」

自分よりもずっと目上だと思う相手に丁寧に頭を下げられヒカルは
まっすぐに佐為を見た。
その綺麗な瞳とぶつかってしどろもどろになりながら自分もお辞儀した。

「オレは進藤ヒカルです。あの・・・、」

ヒカルは口にしたもののその先を言っていいのかわからず言葉を濁した。

「どうかしましたか?」

優しい声に即されてヒカルは顔を上げた。

「佐為様は女の方ですか?」

それに緒方が噴出し笑った。

「あはは、ヒカルお前と言う奴は、」

緒方があまりに笑うのでヒカルは顔を染めた。

「ごめんなさい。オレもしかして・・・また、」

佐為は困ったように笑ってヒカルを見た。

「いいのですよ。よく間違えられるんです。私はこう見えて男です」

「ご、ごめんなさい」

ヒカルは女性と言ってしまったことにひどく恐縮した。
そしてこんな綺麗な男性がいるのかと驚いていた。
いまだ笑い続ける緒方を佐為は恨みがましく見た。

「緒方様その笑いは酷いです」

「いや、すまん、すまん。
ヒカル、藤原佐為と言えば当代きっての碁の天才と言われる本因坊家
の当主だ。
将軍様にも碁の手ほどきをするほど今江戸で人気の碁打ちだぞ」

そこでヒカルはあることに思い当たった。
昨夜筒井にもらった棋譜の綴り、確か白を打った人の名がその名であった。

「じゃああの棋譜を打った人?」

「あの棋譜?ひょっとして佐為の棋譜を見た事があるのか」

緒方に問われてヒカルは慌てた。また言わなくてもいいことを口にしてしまっ
たかもしれなかった。

「昨夜筒井さんに貸してもらった棋譜に確かそう・・・、」

ヒカルは字を読むことが出来たが「佐為」と書いて「さい」と呼ぶとは
思っていなかった。だからピンとこなかったのだ。

「どの棋譜でしょうか?」

「えっと・・・」

佐為に訊ねられてヒカルはどう答えていいものかわからなかった。
ヒカルが酷く困ったのを見て緒方が碁盤を空けた。

「お前の事だ。棋譜を覚えてるだろう、並べてみろ」

言われるままにヒカルが棋譜を数手並べると佐為がほほ笑んだ。

「私がお城碁で塔矢様と打った碁ですね」

緒方は苦虫を噛んだように笑った。

「塔矢行洋か」

ヒカルには大人の世界はわからなかったが緒方が塔矢行洋があまり好
きではないのだろうことだけはわかった。
それは佐為も知っているのだろう。苦笑していた。

「佐為。今日は時間があるのだろう」

「ええ、今日は緒方様の所だけの予定です」

「だったらヒカルと対局してやってくれまいか」

緒方の申し入れにヒカルは内心相当驚いていた。
正直打てたら嬉しい・・が佐為を落胆させてしまうかもしれなかった。

「でも、オレ・・、」

「もちろん、喜んで対局します」

ヒカルが断りを入れる前に佐為はそう返事した。

「私と緒方様の碁を真剣にみてましたね。ヒカルはきっと見てるより打ちたい
のだろうと思いました」

「でもオレまだまだ下手だし」

「構いません。ヒカルの好きなように、思うように打てばいいのです」

その様子を見て緒方は嬉しそうに立ち上がった。

「佐為、後は任せて良いか?」

「はい」

緒方が立ち去った後ヒカルはまるで夢見ごちの気分だった。
あの棋譜を打った人と打てるのだ。
今はただ1分でも数秒でも長く打っていたいとヒカルは思った。



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実は佐為を書くのは初めてかもしれない。ちょこっとならありますが。
私の場合ほとんど佐為が消えてからの2次小説しか書いてなくて。だからか新鮮で楽しいです。ま、これからこのお話も色々あるわけですが(汗)





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