駅からの坂を駆け上る。マンションのエントランスは丁度開いておりヒカルはすべり込んだ。
2基あるエスカレーターはどちらも昇降中で1秒だって待てず階段を上る。
部屋の前に立った時には脈も息も上がっていた。
インターホンを押した後、胸を押さえようやく呼吸を整えた。
「はい」
インターホン越しの塔矢の声に返事する間もなかったのは、塔矢がモニタ越しにヒカルだとわかり玄関に向かったからだ。
すぐに扉が開く。
「進藤!!」
玄関で顔を見合わせお互い一瞬固まる。
塔矢も僅かに息が上がってる。
「待っていた」
「ああ」
靴を脱ぎリビングに入った瞬間、正面から抱きしめられる。
「お前いきなりすぎ」
壁に背を押され塔矢の腕の力が強くなる。
ヒカルは持っていた鞄を床に落とすと『しょうがねえな』と苦笑しながら塔矢の背に手を回した。
「脈も呼吸も早い」
「階段上がってきたから。お前も少し早いぜ」
「君が来てくれたから」
「なんだよ、それ、」
連絡もせずここに来たけれど、それは成功だったかもしれない。
その後言葉が無くなる。塔矢のその腕を胸を確かめるように
頭を預けた。
「オレ勝ったぜ」
今日の対局相手に嫌味の一言くらい言ってもいいだろう。
「悔しかった」
「強かったろ。オレと伊角さん」
塔矢の腕が僅かに緩み、名残惜しさを感じながらソファを示す。
「塔矢、もう座っていいか?」
腕を突くと塔矢がようやくヒカルを解放した。
こうして塔矢と付き合いだして思う事だが、塔矢は妙に子供ぽい時がある。
普段の塔矢からは想像も出来ない姿だった。
ヒカルがソファに腰を下ろすと、隣に塔矢も座った。
「小林先生に言われたんだ。君と伊角さんは交際してるのだろうかと?」
「はあ?!」
思わずヒカルは素っ頓狂な声を上げた。
「どうして?そうなったんだ?」
「君と伊角さんは普段からよく一緒にいるし仲も良いから。ペア碁の相性も抜群だったと言ってた」
そんな事を言われるとヒカルは苦笑するしかなかった。
「いや、まあ、褒め言葉として取っていいのか、それ」
「悔しかったんだ」
ヒカルは今度は声を上げた笑った。
「ひょっとして負けた事より、その事が悔しかったのか?」
「出来るなら君とペアを組みたかった」
負け惜しみのような塔矢の本音にヒカルは小さな溜息を吐いた。
塔矢とは組みたくないと思っていたが、今はその気持ちもわかる気がする。
他の誰かとペアを組む塔矢を見たくなかった。
たぶん塔矢と組むのと同じくらい苛立ちを覚えていた。
ヒカルは自分の中の矛盾に気づき苦笑した。
「オレはお前とは組みたくなかったぜ。お前と組むとお前の負けた時の愁傷な顔が見れないからな」
自分でも素直じゃないと思ったが、こんな塔矢を見られるならいい。
「それで小林先生には誤解だと言ったのか?」
「進藤と交際してるのは僕だと、」
「ハハっ、言っちまったか」
「かなり驚かれていた。何度も『すみません』と言われたし」
「けどまあ、オレとしては伊角さんと噂されるのは悪い気はしねえな。緒方先生は絶対勘弁してほしいけど」
「君は伊角さんが好きだったのだろう?」
「何でお前がそんな事!!ひょっとして和谷に何か聞いた
のか?」
「少し・・・」
「もうあいつ一体いつの話してんだよ。それに好きっていうか憧れてただけだから」
「君は恋愛感情を憧れだと思い込もうとしたんじゃないのか?」
塔矢に図星を刺されヒカルは苦笑した。
「まあそれは、あったかもしれないけど。どうしたってオレの片想いだったさ」
膝に置いた塔矢の手が拳を握るのを横目で見る。
「今は吹っ切れたのか?」
少し困ったなとヒカルは思う。
「そうだな。たまにさ、たまにだぜ?やっぱりオレはこの人の事好きだったんだなって そんな風に思う事はあるかな」
「今回のように長いスタンスでペアを組んだらその想いは余計に強くなったんじゃないのか?」
「いいや、オレは今好きなやつがいるからさ。そんな事はねえよ」
勇気が言った言葉は僅かに声が震えた。
塔矢が息を飲み、話題を逸らすようにヒカルは床に置いた鞄を取った。
「そうだ。これ伊角さんに貰ったんだ」
ヒカルは先ほど伊角と書いた寄せ書きを鞄から取り出すと手渡した。
「『世界最強ペア』と伊角が書いた色紙には二人の寄せ書きサイン。
間違いなく今ヒカルの一番の宝物だ。
けれどその想いは塔矢への想いとは別のものだと今はっきりとわかる。
「ファン応募サービスに書いた色紙をオレと伊角さんも貰ったんだ。世界大会に同じ気持ちで臨めるように」
塔矢はしばらくそれを見て、テーブルに置いた。
「伊角さんに嫉妬するか?」
「もうしてる」
塔矢は、自笑するように笑う。
「オレだって嫉妬したんだぜ」
「誰に?」
「女流はやっぱ淑やかな方がいいよな」
名前を言わなかったが塔矢はそれでわかったようだ。
「それに門下としてもな。彼女も名門だろ。オレじゃお前に釣り合わねえし」
「そんな事本気で思ってるのか?」
「思ったさ」
「君は君じゃないか。門下とか名門とかそんなのは
関係ない!!」
塔矢は声を上げてしまった事を後悔するように溜息を吐いた。
今日はヒカルも口喧嘩はしたくない。
「好きな人がいると君はさっき言ったが、それは僕だろうか?」
胸がドキリとする。出来れば聞き流して欲しかったのだ。面と向かって言うのは流石に照れ臭い。
「他に誰がいるんだよ」
選んだ言葉は喧嘩越しになって、やっぱり『好きだ』とは言えなかった。
隣に座った塔矢がオレの腕を取る。手をつないだだけなのにそこから互いの想いが伝わってくるようで、心臓がばくばく音をあげる。
「不安で仕方がなかった。伊角さんに君を奪われたら。緒方さんに出し抜かれたら、そう思うと不安だった。
だからただこの2か月、がむしゃらで必死だった」
「オレだって、お前に惹かれてく気持ちと必死に戦ってた。これからもお前のライバルである為に」
「それで、ライバルでも恋人になれると思えたろうか」
「そうだな。少なくともお前と真剣勝負出来て今はすげえ清々しいっていうかさ。今ならなれる気がする」
繋いでいた指が絡められる。
ただ繋いでいた時よりもそれはお互いをもっと結ぶ。
離れたくないと思う。
「進藤今日ここに泊まって行かないか?」
『それって?』一瞬考えそうになった事をヒカルは打ち消すように頭を振った。
「いや、お前んち泊まったら洒落になんねえだろ?」
「洒落にならないって?」
疾しい事を考えた自分にヒカルは顔を真っ赤にした。
「いや、オレ何言ってんだか」
「進藤、自分の気持ちを茶化さないで欲しい。僕は・・・」
塔矢が次の言葉を飲み、ヒカルもごくりと唾を飲み自然としりごみしていた、
それは次の言葉を予想出来たからだ。
「君が欲しい」
「欲しいってそれはあの・・・」
『やっぱりそういう事だよな?』と考えながら必死に平静を装いながら頭の中はあたふたしてる。
「そういうのはさ、心の準備がいるだろ」
「心の準備だけなのか?だったらもう少し待ってもいい。
君が『いつ』と決めてくれるなら」
「いや。違う、じゃなくて、待てって」
ヒカルは慌てた。そんなものを自分で『いつ』などと決める方が
よほど恥ずかしい。『今からそんな事します』と予告めいて会うなど、きっとドタキャンする。
「じゃあ?」
「やっぱ、しなきゃいけないのか?」
「僕だけの一方的な思いでないなら、応えて欲しいんだ」
「男の性っていうかさ、そういうのはオレ女だけどわかる気がするんだ。
院生の時からそういうの聞いてて耳年増なってて。
でもお前が、っていうのは全く想像つかなかったんだよ。だってお前そんな事考えてませんって感じだし」
塔矢がそんな話題をするのですら想像つかなかったのだ。ヒカルとだなんてましてだ。
「僕だって君の前ではただの男だ」
塔矢は本当にまっすぐでやっぱりこんな時でも塔矢だなと思う。
「オレは・・・ただの女になっていいのか?」
声が震える。
「受け止める自信はある」
絡められた指に力がこもる。
「うん」
ヒカルは頷いていた。
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