ヒカルが1階エントランスに入るとアキラとばったり出くわした。
「塔矢出掛ける所か?」
ヒカルと約束してるのに、そんな事はないだろう思ったが塔矢の息は僅かに上がっており、急いでいるようにもみえた。
「そろそろ君が来るころだろうと思って」
『本当は駅まで迎えに行こうと思っていた』と言ったアキラは少しでも早くという気持ちが伝わってくる。
アキラの横に並びエレベーターを待つ。
ヒカルは大げさな程の溜息を吐いた。
「どうかした?」
エレベーターに乗り込み二人だけの空間にぼつりと文句を吐く。
「お前の親にあった」
「何か話をしたの?」
「何でお前はオレと付き合ってるなんて言うかな」
小声でぼやくと5階に着いてヒカルはもう1度溜息を吐いた。
「すまない。どうしても両親には言って置きたかったんだ」
「どうしてもって・・・」
「緒方さんとの事もあって、誤解は解いておきたかった」
「まさか塔矢先生までオレが緒方先生と付き合ってると思ってたのか?」
アキラは溜息を吐いた後苦笑し、部屋を示した。
「とりあえず話は入ってからにしよう」
勧められ部屋に入ると前に来たときと違って部屋には色が出来上がっていた。
モノトーンを基調にした部屋は大人の落ち着きで、すでに塔矢の色だった。
引っ越したばかりだからか、塔矢のもともとの性格なのか物は少なく
広いリビングにあったのはソファとテレビボードに本棚だけだった。
「なんかお前らしい感じだな」
「そう?」
塔矢にソファに『どうぞ』と勧められたがヒカルは部屋を見回した。
「部屋を見て回っていいか?」
「自由に見てくれていいよ。と言ってもリビングと寝室しか部屋になっていないけど」
「そりゃそうか、これからだもんな」
「コーヒーでも淹れよう」
「あ、そうだ、これ焼き菓子なんだけどさ」
ヒカルはあかりに教えてもらった最近評判の焼き菓子を塔矢に手渡した。
「ありがとう、これも一緒に出そう」
塔矢はキッチンに入って行き、ヒカルは気になった本棚に目を移した。
キッチンの塔矢に声を掛ける。
「塔矢、本見てもいいか?」
「好きにしてくれていいよ」
ありすぎてどれにしようかと迷ってる間に塔矢がテーブルにコーヒーを置く。
「ここに置いておくよ」
「ありがとう、にしても今日これ全部片したのか?すごいよな」
「いや、本棚は僕の部屋にあったものをそのまま持ってきただけなんだ」
「そんな事出来るのか?それできちんと並んでるんだな」
本棚はスライドするタイプのもので、
手前はまだ余裕があったが、3段の奥はみっちりと本が収められ、専門書はカテゴリ―ごとに雑誌はバックナンバー月に並べられていた。棋院の売店より充実してる。
「君が持ってきてくれたお菓子も持ってくるよ」
「ああ」
本棚を見ていたヒカルは自身の目線より少し高い位置、右端の雑誌に気付き何気なく手を伸ばした。
バックナンバーごとに並べられているのにその月刊誌だけそこに迷い込んだようだった。
引っ張りだし表紙を見たヒカルはすぐその意図に気付き戻そうとしたが、中に挟んであった紙切れが2枚足元に舞った。
慌てて拾うとそれは写真だった。
雑誌は昨年の正月号の特集で塔矢と一緒に対談した時のものだった。
拾い上げた2枚の写真はその時に撮られたものだと思うが、雑誌に使われたものじゃなかった。
成人式で振袖を着たヒカルと袴の塔矢が寄り添うように並んだ写真と、腕を組んで撮った写真は少し照れ臭そうに塔矢もヒカルも笑っていた。
恐らく記事に使われなかったものを塔矢が頼んでもらったのだろう。
塔矢がキッチンから出てくる気配に慌てて写真を戻そうとしたが本は戻せたが写真は咄嗟に本の上の隙間に隠すように
置いた。
写真は後で戻す機会を探すしかない。
「どうかした?」
「いや」
本棚のスライドを戻し、ヒカルは平静を装ったが、内心ドキドキと胸が鳴っていた。
ずっと塔矢はヒカルの事を思っていたと言っていた。それは少なくともここ1、2年というわけではないのだろう。
その想いを垣間見たような気がした。
「コーヒー冷めちまうな」
ヒカルは取り繕いソファに座った。アキラが菓子を置きヒカルの隣に腰掛ける。
少し距離のあるその空間にもどかしくも少しほっとする。
「そういや、新居祝い用意しようと思ってたんだけど。何がいいかさっぱりわかんなくてさ。やっぱそういうのは直接聞いた方がいいと、思って。塔矢何かリクエストない?」
「ああ、えっと、突然言われても思い浮かばないな」
「欲しいものとかないのか?遠慮しなくていいぜ」
「そうだな・・・」
アキラは困ったように苦笑した。
「君が時々ここに来てくれたら僕はそれでいい」
「なんだよ。それ、欲しいもんじゃねえじゃねえか!!」
ヒカルは照れ臭くなって頬を染めた。
そしてそう、塔矢と慣れあっていられない事を自身に今一度心の中で言い聞かせた。
「ごめん、オレお前とはしばらく個人的には会わないでおこうと思って今日は来たんだ」
「どうして?」
「お前にとってペア碁なんて棋戦の中じゃ重きをおいてねえんだろうけど、オレはかけてる。
お前と小林先生のペアとは絶対どっかで対局するだろう。だからさ、」
「君と僕の公式手合いはこれからどんどん増えてくだろう。そのうち君は女流棋戦だけでない。棋戦にも参戦をしてくる。そのたび僕と距離を置くつもりなのか?」
「そうお前と慣れ合ってられないんだよ」
「それはこの間君が言っていた『ライバルである事と恋愛感情は切り離さないといけない』という事なのか?」
「それもある」
「それだけじゃないのか?」
「後はオレの心の問題だから」
お互い言葉が無くなる。
塔矢の顔を見れず、手元のコーヒーを意味もなく含む。
それは少しほろ苦かった。
本当は今日帰る前に言おうと思っていたのだ。
「お互い勝たなきゃならねえんだ。どの対局だって一つも譲れるものはない」
「当たり前だ。君は僕はペア碁に重きを置いてないというがそんな事はない。最善を尽くす」
「なら慣れあってられねえってのもわかるだろう」
「君は他の対局者でもそうやって距離をおくのか?」
「他の対局者って?」
「例えば・・・」
アキラは少し躊躇してその名を口にした。
「伊角さんや、和谷くんとか」
「いや、それは・・・」
実際伊角とは公式戦で近く手合いがあった。が、ペア碁の事もあり、間を置くような事はしていない。
「僕とでは違うのか」
「そりゃそうだろう」
「どう違うんだ?」
「塔矢、もういい加減にしろよ!!」
塔矢の先ほどからの質問攻めに嫌気がさしてヒカルは怒鳴っていた。
「進藤、君が僕と距離を開けたのは1度じゃない。そのたびに僕はいままで飲みこんできた。
どうしても距離を取らないといけないのか?2月近くも君に会えないのか?」
「これはオレなりのケジメだから」
「昨日の・・・僕の誘いを断ったのもそうなのか?」
「お前本当今日質問攻めだな。昨日は和谷の所の研究会で貫徹してさ。そうだな。そういう煩わしさを忘れてしまいたかったっていうか」
「徹夜したのか?和谷くんの家で!?」
塔矢の表情が強張る。
「ああ」
「ひどく嫉妬を覚える」
「なんだよ。嫉妬って!!」
「僕の誘いは断って、和谷くんや伊角さんと徹夜で対局したのだろう」
「いや、だからそういうお前の考え方がさ。公私混同じゃねえか」
「そうだろうか?研究会とはいえ私的なものだ。
僕への想いの煩わしさを紛らわすために君は徹夜で和谷くんや伊角さんと対局をしたというなら僕が嫉妬するのは当たり前だ
ろう」
「な、お前だって小林先生を研究会に呼んでるだろ!!」
「あれは緒方さんがやってる事だ!!」
怒鳴りあって、ヒカルは『もういい』と言ってソファから立ち上がった。
このまま帰るぐらいのつもりだった。
「進藤、君の言う煩わしいという想いは何だ?」
「塔矢、お前いい加減に・・・」
アキラはヒカルと同じように立ち上がる。
「君が僕に惹かれ始めていることを知ってる。君にとってそれは煩わしいだけなのか?」
「・・・オレだってどうしていいかわかんねえんだ」
塔矢は顔を寂しそうに曇らせた。
「せめて2か月会えないと言うなら今君を抱きしめる事を許してくれないか」
その瞬間塔矢がヒカルの言い分を飲んだのだとわかり、
ヒカルは僅かに戸惑った後、小さく頷いた。
塔矢は一歩踏み出すとヒカルを全身で抱きしめた。温かな胸に
抱き寄せられると塔矢の少し早い心臓の音に、ヒカルの鼓動も加速する。
どうしようもなく、愛おしい想いが湧き上がるのは塔矢が好きだから。どうしても負けたくないから。
この苛立ちも、煩わしさも、本当にどうしていいかヒカルにはわからなかった。
「進藤、愛してる」
僅かに顔を上げた顔に唇が捉えられる。ヒカルは塔矢を受け入れるように目を閉じた。
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