アキラと待ち合わせ前、ヒカルは棋院に立ち寄ったのはペア碁のエントリー申し込みの為だった。
ここ3年、ヒカルがこの棋戦の優勝を果たしていた。
つまりはヒカルと組んだペアが優勝しており、囲碁クィーンの称号もそこからきているのだが・・・。
最近の碁界では『進藤と組んだペアが優勝する』とも揶揄されており、それはそれでプレッシャーもあった。
とわいえ、ぺア碁のペアはくじで公正に選ばれており、運も左右していた。
ヒカルは申し込み手続きを終えた後、事務局に聞いた。
「今年のエントリーは?明日が締切だからもう大方出てるよな」
事務員が『えっ』と言いながらエントリーメンバーを確認する
「女流棋士はほとんどエントリーしています。男性は・・・」
この棋戦は沢山ある棋戦の中でも(成績がランクに影響されず)重きをおくプロ棋士はあまりおらず、イベント的要素の方
が高かった。
ペアは男女ペアと決まっており、女流の数は男性に比べ圧倒的に少ない為、男性棋士はエントリーしても出場できるかどうかわからなかった。
ただ今年は世界大会が開かれる年で優勝すれば、出場できるという特典があり、3年連続優勝してるヒカルにとっては重要な棋戦だった。初めての国際大会出場になるかもしれない
のだから。
「女流の2.5倍という所でしょうか」
「やっぱ出場できないやつの方が多いか」
ヒカルはそれだけ確認して、立ち去ろうとしたら事務局入り口の壁に緒方が凭れ『どかっ』と立ちふさがっていた。
内心ぎょっとしながら表情を変えず会釈する。
「おはようございます」
「随分早いな」
「これから予定があるから」
事務局が開く時間に来たと言うのもあるが、緒方から誘われても断れるように最初から予定がある事だけはしっかりと
言っておく。
「そうか?それでお前もペア碁のエントリーか?」
「そうだけど」
「ちょっと待ってろ」
緒方はそれだけ言うと、事務局に入っていく。
断るタイミングさえヒカルにはなかった。
『お前も』と言う事は『先生も』なのだろうと、事務局を覗くと
緒方は事務局に入るとエントリー用紙に記入していた。
ヒカルは事務局から少し離れたソファ前で待った。
そのまま抜け出そうとも思ったが、緒方の『ちょっと待ってろ』
を無視することも出来なかった。
しばらくして現れた緒方にヒカルは心の中で溜息を吐いた。
「先生もペア碁か?倍率2.5倍とかって言ってたぜ?」
「2.5倍なんてもんじゃないだろう」
ヒカルがキョトンとすると緒方が笑った。
「お前を引き当てようと思ったらな」
「オレのペアを狙ってるのか?そりゃ流石に無理じゃねえ」
「お前も出場するのだし誰かと組むのだろう。ならオレだってチャンスはあるじゃないか」
「そうかもしれないけど、オレは・・・」
『先生とはごめんだ』とは流石に言えず、口ごもった。
「アキラくんは出場するのか?」
「さあ、聞いてないけど」
「アキラ君と組みたいとは思わないのか?」
「思わねえよ」
「どうして?」
「ペア組んだら塔矢と対局出来ねえじゃねえか、緒方先生と組むより嫌だぜ」
思わず本音が出てしまい『しまった』と思ったが、緒方は笑いながらヒカルの頬を突いた。
「それが目上の相手に対する言葉か?」
ヒカルは緒方の手を払いのけた。
こんな所を見られたらまた誤解される。
「やめろよ」
「そんなにオレを邪見にするな。これでも心配してるんだ」
「心配って、オレ先生を心配させるような事したか?」
「しただろう。月のモノもそうだし、先日のパーティの事もあった
ろう。オレもお前があんなに酒に弱いとは知らなかったし、反省してる」
素直に謝罪されてヒカルは『オレもちゃんと断ればよかったんだ』
と小さく謝罪した。
「それにおまえの活躍には注目もしてる。ぺアだって
もしオレと組んでも手を抜かんだろ?」
「当たり前だ。ただこれ以上変な噂が広まるのは嫌だから」
「わかった。だったら、しばらくはお前とは距離をおこう」
「うん」
緒方がそう言ってくれた事にヒカルは少し安堵した。
「オレもう行くぜ」
「まあ、待て、もう一つだけ聞きたいことがあるんだが」
緒方はそう言って、勿体ぶるようにヒカルを見た。
「なぜアキラくんなんだ?」
「なぜって・・・。付き合ってる事か?」
思わず周りを見回したのは人に聞かれては困るからだ。
「あいつはオレが認めたライバルだし、そんな奴に告られて・・・。そりゃ最初は戸惑いもあったけどでも素直に嬉しかったんだ」
「逆に言えば、お前に惚れてるから、ライバルとして望んできた進藤に合わせてアキラくんが演技してきたとは考えないのか?」
「それって塔矢はオレの事をハナからライバルとは思ってないって事か?」
緒方は肯定も否定もせず、ヒカルはそんな事は絶対ないと思いたかった。
でも塔矢は付き合い始めてからヒカルと言い争う事を避けるようになったし、多少の事は飲み込んでる節はあった。
あの徹夜のネット碁の後、アキラがヒカルに電話で言募った告白は
『君にチャンスを貰ったと思って、好きになって貰えるよう努力する』だった。
それはヒカルのライバルとしての今までのアキラを作ってきた・・と考えられなくもあった。
「そんな事あいつに出来るわけないだろう」
「どうして?」
「オレはあいつと付き合いが長いんだ。あいつの生真面目な性格は良く知ってる」
「オレの方が長いさ。あいつは欲しいものは必ず手に入れようとする」
「それは人一倍努力してだろう。運とか棚から牡丹餅じゃない」
ヒカルが怒鳴ると緒方が薄ら笑い、ヒカルはますます胸の中の怒りが収まらなくなる。
「棚から牡丹餅か、オレがお前を引き当てたらそうかもしれないっか・・・。」
緒方は指を口元に持っていき、タバコを吹かせるゼスチャーをした。
喫煙室にも行こうと誘っているのかもしれないが、ヒカルはお断りだった。
「オレこれで失礼します」
ぺこりとお辞儀すると、緒方が呟いた。
「冷静になって考えてみろ」
その言葉は茶化しでなく、緒方に笑みはなかった。真剣に言ってる?そうヒカルは思ったが緒方の心の内などわかるはずない。
ヒカルは緒方に背を向け階段を下った。
階段を下ったのは緒方と一緒のエレベーター
に乗り込みたくなかったからだが、生憎と1階でも鉢合わせヒカルは走って棋院を後にした。
緒方にヒカルの動揺まで見通されているようだった。
→16話