アキラが部屋に戻ると、進藤はホテルの備え付け寝巻に着替え布団に包まるように眠っていた。
その寝顔と寝息が穏やかで少し安心してクロークから預かってきたコートをクローゼットに掛けようとしたら、彼女のドレスが掛かっていた。
パーティにドレスを着てくるなんて聞いていなかったし、
そんな進藤を見た事もなかった。
僕の為に着てきたのだろうか、と思うのは自惚れだろうか?
一度だけ進藤と一緒に取った雑誌のお正月企画で羽織袴と振袖で並んで取った写真があった。
去年成人式を迎えた時に飾った雑誌の表紙だ。
進藤は嫌がっていたが、これも節目だと言われ渋々応じていた。
あの時のはにかんだ彼女の写真はアキラの密かな宝もの
だった。
そんな事を思いだしアキラはクローゼットを閉め溜息を吐いた。
緒方の宣戦布告に怒りはあったが、今は絶対に彼女を緒方に渡さないという意志が強かった。
進藤との喧嘩はお互い認めているから出来る事だ。お互い知らない事が多いのも今から少しずつ知っていけばいい。
『お前にはいつか言うかもしれない』そう言った進藤をアキラは信じたい。
必死なアキラの想いはまるで自信なさのようだった。
ヒカルが目が覚めるとアキラが部屋の端のソファで棋譜
打ちをしていた。
暗闇の部屋に手元だけ照明をつけ、寝ているヒカルを思ってか音は極力立てないように石を置く。
いつもよく見ている光景のはずだった。僅かにアキラの横顔が揺れると照明があたりその輪郭がはっきりと映る。
真剣で端正なその横顔と子供のころから切りそろえられた
おかっぱの髪と長い睫、そして美しいうち筋。
プロの中には雑で綺麗とは程遠い打ち手もあったが、塔矢は幼少のころより躾けられてきたのだろう。
打ち筋はとても綺麗だった。それこそ佐為にも負けない程に、
そんな事を考えていたらアキラの指が止まり、暗闇の中で視線が合う。
「進藤起きたのか?」
ぼんやり見ていたつもりが、いつの間にか見惚れていたことに気付き、ヒカルは顔が赤くなったような気がした。
「あ、いや、その寝すぎて、ぼっとしてた」
今何時なのか全く見当がつかず時計を探すため部屋を見回したが、暗くてわからない。
「10時を回った所だ」
アキラに先に言われ「ああ」と頷いた。
パーティーのお開きが5時の予定であったから、それから寝ていたのだから5時間も寝ていた事になる。
「ホント良く寝てたんだな。オレ」
「疲れもあったのだろう。体調はどう?」
「平気、良く寝たからかな、頭がすっきりした気がする」
「今からでも家に帰られる時間だけど」
「ここ明日まで取ってるって言ってなかったか?」
「ああ、」
「だったら・・・」
ヒカルは思案する。アキラと明朝まで一緒にいるのも悪くないと思う。、が男と女が一緒に夜を過ごすというのは
どうなのだろうかという、一般的な事も今更のように思う。
しょっちゅう和谷や伊角たちとは研究会で雑魚寝同様の状態で
朝まで過ごすこともあったが、一度もそんな事を思った事はなかった。
「僕はどちらでもいいよ」
そう言ったアキラの声はわずかに上ずっていたような気がした。
「塔矢、ここの金はオレがちゃんと払うから。えっと・・・」
言葉を切ったヒカルにアキラは怪訝に顔を上げる。
「今から帰る?」
「お前はどうしたい?オレの我がままっていうか、お前はオレに付き合ってくれたわけだし」
「そんな事は気にしなくていいよ。君の役に立てたなら僕はそれでいいんだ」
だが、そう言ったアキラは一端言葉を区切り、戸惑うようにその言葉を口にした。
「それでももし、僕の気持ちを尊重してくれるなら君と朝まで一緒にいられたらと思う」
火照った頬がますます赤くなったような気がした。
「えっと、その朝まで囲碁を打つ位だったら付き合ってやるぜっ、てお前明日の仕事は?」
「昼過ぎから移動だけだ」
「移動って、ひょっとして」
ヒカルはアキラが来週から海外遠征が始まる事を知っていた。
今日帰ってきたばかりだが、時差なども考慮に入れて明日にも立つのだろう。
「それだったら準備だけでも大変じゃねえか!!」
「準備は終えてる。明朝一端家に帰宅はしなくてはいけないが」
「そんな無茶させられねえよ。今からでも帰った方が良いだろ」
今日だって無理してここに参加してる事ぐらいヒカルだって知っていた。
「君と少しでも一緒に居たいんだ。まして明日朝まで付き合ってくれると言うなら」
「お前・・・」
ヒカルは少し呆れた。
「オレの事そんなに・・・」
『好きなのか?』と聞こうとしたが恥かしくなって聞くことが出来ず口を閉じる。
「好きだよ、君が・・・。」
心臓が大きく跳ね上がり、全身火がついたように火照る。
全く部屋の電気が付いていなくてよかったとヒカルは思いながらベッドから起き上がった。
「ああ、もううぜえ、お前と打つ前に顔洗って目え覚ましてくる」
照れ隠しで心にもない事を言って、手さぐりで壁沿いにあった電気をつけると眩しくて
洗面所に逃げるように入った。
火照った顔を水で冷ましながら、どこか期待するような感情にヒカルはどうかしてると思う。
結局伊角さんが貰ってくれたという、夜食をつまみながら明け方まで対局し、お互いベッドに横になったのは4時を過ぎていた。
アキラに揺り動かされた時、ヒカルは熟睡していた。
「何?」
そう口にした時もまだ半分夢の中だった。
「すまない。僕はもう出ないといけないんだ」
「今何時だ?」
ヒカルは全く時間の感覚がわからなかった。
「7時半だよ」
「7時半..」
アキラの言葉を反復してもまだ頭は回っていない。
「君はまだ寝てたらいい」
「うん」
あまりの眠さにアキラの言葉に甘えつつ、ヒカルはそのまま
また眠りに落ちようとする前に大事な事を思いだした。
「チェックアウトは10時だよな?オレちゃんと支払いするから」
「支払は終わってる」
「ええ?」
驚いて流石に目を開けた。
「オレが支払うって」
「いいよ、そんなの」
「よくないだろ」
せめて折半にはしないと気が済まず、ヒカルが上半身ベッドから起き上がるとアキラの顔が目の前にあった。
「だったらこれぐらいは許してくれないか?」
唇が重なる。あまりに突然でヒカルは目を見開いたままだった。
アキラの両手がヒカルの肩を掴みキスが深くなり、そのままベッドに倒れこみそうになる。
恥ずしさで体内が沸騰しそうになり、アキラとの間を腕で遮り押し
返した。
唇が離れ、ほっとしたような、それでいて寂しさが胸を過ぎ、ヒカルは顔を大きく横に振った。
「馬鹿野郎、いきなし何すんだ」
「すまない」
アキラは素直に謝ったが、謝罪は感じなかった。
「謝っても許さねえし、ここの支払はオレがするからな」
「なら、次の支払いを頼んでもいいだろうか」
「次?」
「帰ってきたら付き合って欲しい所があるんだ」
「付き合って欲しい場所って?」
「1人暮らしを始めようと思ってる」
「そうなのか?」
半信半疑で言ったのは、すでに塔矢はあの大きな自宅で1人暮らしに近い状況だったからだ。しかも一人暮らしをする事とアキラに付き合う事、支払いをすることの関連が結びつかなかった。
名残惜しそうにアキラが一旦ヒカルと間を取った。
「もう1度キスをしてもいいだろうか?」
さっきの反省がやはり口先だけだった事を悟りヒカルは怒鳴っていた。
「バカ、ダメに決まってるだろ!!」
そう言った瞬間アキラはヒカルの額に唇を寄せた。
不意打ちだった。
「なっ」
思わずおでこを押さえるとアキラが笑った。その笑みは憎らしい程優しくて、顔中が真っ赤になる。
「じゃあ、僕はもう行くから」
鞄を手に取り背を向けた塔矢にヒカルは罵声を浴びせた。
「バカ、塔矢!!お前の事なんかもう知らねえ!!」
近くにあった枕を投げつけたい衝動に駆られ枕を握りしめる。
立ち去る前アキラは一旦立ち止まり振り返った。
「行ってくる」
「勝手に行って来い」
そんな言葉しか言えない自分がひどく不器用に思えたが、今の感情は自分でもどうしようもなかった。
アキラが部屋を去り、ヒカルはその時になって消えたその人に向かって枕を投げようとして辞めた。
「バカ野郎」
ヒカルはごろんと転がり投げ損ねた枕を抱き布団に包まる。
そうして何度も何度も「バカ野郎」と呟いた。
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