恋愛のススメ

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棋院で入っていた仕事が終わり、ヒカルは鞄の中から今までマナーモードにしていた携帯を確認する。

和谷からのメールが一件入っていた。

>今日棋院で仕事だろ?7階で研究会やってるからよかったら来いよ

ヒカルは時計を見る。
メールが受信されたのは3時間も前でひょっとしたらもうやってないかもしれない。
そう思いつつエレベーターへと向かいエレベーター前でタバコを吸う長身の男の姿に相手の顔も確認しないまま
Uターンするように回れ右した。

エレベーター前にいたのは緒方だろう。
緒方が居ても普段通りすればいいのだが、
『噂のせい』でどうにも居心地悪く、塔矢も気にしていて今はあまり顔を合わせたくないというのが本音だった。

ヒカルはとりあえずトイレに入ってやりすごし、しばらくして出所した、まっ正面の壁に緒方が立っていて流石にぎょっとした。


「さっき、オレの顔を見て避けただろう?」

サングラスのせいか緒方の顔色はうかがえない。
凄味のある声は少し笑いを含んでいる気もしたが・・・。
言い訳できず、ヒカルは困って頭を掻いた。

「少し話がある。今から付き合え」

半場強引な緒方にヒカルは心の中で溜息を吐いた。
このままだとまた腕を引っ張られ強引に連れて行かれ
かねない。

「先生ごめん、オレ今から約束あるから」

約束したわけじゃないが、和谷からの声は掛かってる。
ヒカルは立ち止まらずエレベーターまで歩き、一瞬躊躇したが上へのボタンを押した。そういうヒカルの態度で察してほしいと思うのだが緒方は一向にお構いなしのようについてくる。

「お前最近オレを避けてないか?」

図星を刺されてヒカルは内心焦る。緒方にはちゃんと話をした方がいいのかもしれない。
・・・が、緒方にその気もないのにただそういう噂が
流れてるだけで、意識するのも妙な気がした。

「おいおいには話すけど、今日はオレマジで約束あるから」

上がってきたエレベーターの中に偶然にもコンビニの袋を持った
伊角が乗っていた。

「伊角さん!!」

ホッとしたと言うのが正直で、
これ幸いにヒカルは助けてくれとばかりに伊角に目で
訴える。
伊角はヒカルと一緒にいた緒方を見て、察したらしい。

「緒方先生こんにちわ、進藤は今仕事上がった所か」

「ああ、うん」

「丁度よかった。様子見に行こうと思ってたんだ」

ヒカルは慌ててエレベータに乗り込むと伊角が閉扉のボタンを押す。
後ろ手でヒカルは緒方に手を振った。

「先生じゃあ」

緒方の顔をまともに見ぬままエレベーターが閉まる。
緒方の舌打つ音が聞こえたような気がしたが、伊角と一緒なら
もう大丈夫だとヒカルは胸を撫で下ろした。

「伊角さんサンキュ、助かった」

「オレは何もしてないけど。
緒方先生に何か言われたのか?」

「ちょっと誘われた。けど断り辛いからさ」

エレベーターが7階に着き二人で降りる。

「和谷も棋院で研究会なんていきなりだよな」

その研究会のおかげで言い訳が出来たし、伊角にも会えたわけだが・・・。

「森下門下の研究会があったらしいが、今は和谷だけらしい。
オレも下で指導碁があって呼び出されて、それで買い出ししてきた」

そう言って伊角はコンビニの袋を見せる
袋の中にはペットボトルにお菓子が入っていた。今日はここで徹底的にしようという事だろう。

二人揃って部屋に入ると和谷が待ちくたびれたように横になり
棋譜を見ていた。

「伊角さん進藤に会えたんだ」

「それが・・・」

起き上がった和谷が二人を見比べる。

「どうかしたのか?」

「ここ来る前に緒方先生に会ってさ」

「それで?」

「最近オレを避けてないかって言われた」

「その通りだろ?」

和谷は当然のごとく言い放ち、ヒカルは苦笑した。

「まあそうなんだけどさ」

「なんだよ。進藤もはっきりしねえな。そういうのは相手に気を持たせるもんじゃねえって。はっきり、迷惑だって断ればいいんだよ」

伊角は持っていたコンビニの袋からお茶を取り出すとヒカルと和谷に淹れた。それに礼を言って受け取る。

「気を持たせるとか、そういう気はないし。オレはただの噂に振り回されるのはごめんだぜ」

『まあまあ』と言うように和谷とヒカルの間に伊角はお菓子を
置く。

「和谷はそういうけど、緒方先生は目上の人だし、進藤の立場上無碍にするわけに行かないから難しいだろう」

伊角がヒカルの言い分を弁解してくれた。こういう周りへの気配りも伊角のいいところ だと思う。

「そういや進藤、緒方先生とメールではやり取りしてないのか?」

「アドレスは知ってるけど、ないな」

「う〜ん」

和谷は考え込むように腕を組んだ。

「やっぱオレの考えすぎか?」

「何が?」

「もし先生が進藤にアプローチを掛けてくるなら、メールは十分あると思うんだよな。
例えばさ、直接あって今日みたく進藤に断られたとする。
『いつだったら都合いい?』ってメールで聞かれたら進藤断りにくくねえ?」

言われてみればそうかもしれなかった。

「まあそうかもな」

「けど、あの先生の事だから何か意図があるのかもしれねえ
し?」

「和谷が深読みしすぎじゃねえのか?」

「和谷は勘はいいけど、深読みしすぎるところがあるから。それよりさっきの進藤と緒方先生のやり取り見てて思ったけど、無理してないか?」

伊角なりの心配にヒカルは『大丈夫』と頷いた。
その時少しトクンと心臓が揺れた気がした。

「まあ用心に越したこたあねえから」

「わかってるよ」

くどすぎる程の和谷にヒカルは煩く、そう言って取りあえず一息ついた。

「それはそれとして、オレ伊角さんと和谷に話しておきたいことがあるんだ」

塔矢の事を2人に話そうと思ったのは緒方の事もあったが、
伊角に対する自分なりのケジメもあった。伊角はヒカルの気持ちなど知る由もなかったろうが。

「なんだ、急に改まって。ひょっとして緒方先生は満更でもないとか?」

「違えよ!!」

即答で応えたヒカルに和谷は苦笑した。

「真面目な話だろ?和谷は茶化すな」

「悪い、冗談だって」

悪いと言った和谷だが茶化したのはその場の雰囲気を和ますためだ。それは伊角もわかってる。

「それで、進藤何だって」

「えっと・・・あのさ、今オレ付き合ってるやつがいるんだ」

『誰と?』と言う質問は絶対あるだろうと思ったが、とりあえずその事実だけを告げた。
和谷と伊角は顔を見合わせた。

「流石に驚いた。それは予想出きなかった。オレたちの知ってるやつか?プロ棋士なのか?」

和谷の質問にヒカルは小さく頷いた。

「ああ、オレわかったかも。進藤名前言っちまってもいいか?」

「ええ?!」

声を上げたのは伊角だった。

「和谷わかったのか?オレは見当もつかないが」

「伊角さんはそういう所鈍いからな。相手への気遣いは人一倍なのにな」

「和谷それは褒めてるのか?貶してるのか、どっちなんだ」

溜息を吐く伊角に和谷が笑う。

「それが伊角さんのいいところだからいいんだよ、で、話
戻すぜ?進藤が付き合ってるのは塔矢だよな?」

ヒカルは顔が急に熱くなった気がした。
和谷はやっぱり勘がいい。

「ああ、まあ・・・つっても友達からって事だし、あれだ、あれ・・その」

「本当に塔矢なのか?最近の事なのか、進藤からなのか?」

しどろもどろなヒカルと、伊角の少し間抜けた質問に和谷がまたも笑った。

「もう伊角さん反応遅えよ。当然塔矢から、付き合いを申し込まれたんだろ?けど、友達からって割に進藤、結構塔矢の事意識してるよな、顔真っ赤だし・・・。」

返事を返せないでいると和谷が頬杖をついた。

「だったらますます緒方先生の事はきちんと断った方がいいじゃねえか。
塔矢と緒方先生は同門だし。塔矢だって、お前と緒方先生の噂は良く思わねえぜ」

和谷の言う事はもっともだった。塔矢はあの噂が元でヒカルに告白をしてきたわけだし。

「わかってるって。先生にはオレからちゃんと話しするよ」

「だったらいいんだけどな、」

まだ何か言い足りなさそうな和谷が意味深な笑みを浮かべた。

「所でさ、進藤、塔矢とはどこまでイッたんだ」

「へっ?どこまでって」

間抜けた返事を返したヒカルに伊角が声を上げた。

「和谷、進藤に何聞いてるんだ、それセクハラだぞ!!」

ヒカルはようやく意味を悟って頬を赤らめた。

「バッ、だから友達からっていってるだろ!!」

「友達から始まって、まだ友達なのか?」

「まだ付き合い始めたばっかだし、友達だって」

顔中が火がついたように真っ赤になる。何もない。断じて何もないのにだ。

「和谷!!」

伊角が制するように声を上げた。

「進藤、すまない。和谷そういうのはな、友達だからって興味半分で聞くもんじゃないだろ?まして進藤は女の子だし」

「伊角さんだって本当は気になってるくせに」

「いや、オレは・・・」

言い掛けた伊角が言葉を濁す。

「ま、少しは・・・。」

嘘が付けない伊角にヒカルは苦笑いした。

「伊角さんも気になるのか?」

「気になるというか、進藤と塔矢の二人勉強会は付き合い始めてもあの調子なのかとは思うけど」

『あー』とヒカルは声を上げた。

付き合い始めたと言っても、和谷の期待するようなことは何もない。ただ二人勉強会で怒鳴り声上げてどちらかが帰るというのは少なくとも付き合い始めてからはなくなった。
お互い多少の意識はあるだろう。
だが、それで言い争いが無くなったのは何か違う気もしてる。

「まあ、前程じゃなくなったかな」



そんな話をしてる間にヒカルの携帯にメールが入る。
メールを確認したヒカルは苦笑した
噂をすればって奴だ。

伊角と和谷は顔を見合わせヒカルに聞いた。

「塔矢からか?」

「ああ、そろそろ仕事が終わるころじゃないかだってさ」

「で、オレたちより塔矢を選ぶのか?」

和谷の言葉よりは嫌味よりも笑いが含まれていた。

「いや、今日まだここ来て1局も打ってないからさ、終わってからにする」

「そんなの気にせず塔矢の所に行けよ。オレたちは二人寂しく勉強会するからさ」

「何だよ。せっかく来たのに追い出すのか?」

「緒方さんを振り切ったんだからオレたちも役に立っただろ」

そう言われてしまうと少しさみしさもあったが、和谷は背中を押してくれたのだろう。

「進藤、お前謝恩パーティには参加するのか?」

年度末恒例の謝恩パーテは参加可能な棋士は出ることになってい
た。

「ああ、行く予定だけど」

「塔矢も来るんだろ?」

「たぶん・・・」

「その時にはしっかり聞かせてもらうからな?」

「和谷が期待するようなことは何もないけどな」

ヒカルは苦笑して下ろしたばかりの鞄を背負った。




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