恋愛のススメ

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逃げ込むように飛び乗った地下鉄は混んでいて身を隠すように扉に寄り掛かった。

塔矢がオレを好きだったなんて、思いもしなかった。
きっとずっとその想いを隠していたのだろう。今更ながら思い当たることがあった。

あれほど言い争いをした後でも、あいつはほとぼりも冷めぬうちに勉強会をしようとオレに声を掛けてきた。
最初は熱も冷めねえうちに、って思ったけど。

オレもそのうち、言い争った翌日でも普通に声掛けたりして、また性懲りなく同じことやって。
でも安心出来たのだ。塔矢だから大丈夫だって。

塔矢の事が嫌いかと問われれば、「嫌いじゃない」と言える。
塔矢は一緒にいてわくわくする。遠慮もない。それにあいつだけが、そう、気づいてくれた。

塔矢の事ばかり廻ってヒカルはむしゃくしゃして鞄の中から
タブレットを取り出した。
思考を無理やり変えるようにここ数日中に追加された棋譜を検索した。
車内で新しい棋譜に目を通すのはいつもの事だ。
タブレットを使い選りすぐりを探しだし自宅でもう1度じっくり見るのだが。

検索を掛けて出てきたのはよりによって緒方の棋譜でヒカルは顔を顰めそれを閉じた。

今脳裏にあるのは、別れ際の塔矢の苦悩に滲んだ表情だった。
『後悔しかなかった』 あの時アキラが言った一言が胸に残る。

オレは『後悔はしてない』、と言い切れるか。
伊角の事を思い、それも違うような気がした。

もう塔矢がオレに声を掛けてくることはないかもしれないと、
思うと寂しさもあった。

ぐるぐる考えてるうちに凭れていた扉が開きそれが降車駅だったことに気付く。
人ごみに押され降車したその背後で『ヒカル!!』と呼び止める明るい声がした。
ヒカルは驚いて後ろを見た。

「あかり!?」

あかりは仕事帰りなのだろう。紺色のスーツを着て、きちんと
化粧もしていた。

「ヒカルこんな所で止まっちゃ邪魔だよ」

立ち止まったヒカルの腕をあかりが引っ張った。

「あっ、ておい引っ張んなよ」

人ごみが疎らになった所であかりはヒカルの腕を解いた。

「ヒカル電車の中でぼっとしてたでしょ?」

「見てたのか?つうか同じ車内にいたなら声掛けろよ」

「混んでて近づけなかったよ」

ヒカルはまじまじとあかりを見てふっと溜息を吐いた。

「どうかしたの?ヒカル成績はこのところいいよね、」

あかりはヒカルの対戦成績を見てくれていた。それにヒカルがプロになってから
囲碁雑誌も目を通してくれていた。

「この間塔矢くんに負けてからは勝ってるでしょ」

ヒカルが何も言えず口ごもるとあかりは察して手を合わせた。

「ごめん、時間切れで悔しい負け方したって」

ヒカルは力なく笑った。

「ああ、まあそれはもういいんだけど、あかりこれから時間
ある?」

「仕事上がりだから大丈夫だよ」

「ちょっとオレに付き合えねえ」

「うん、いいよ」



あかりは家に電話だけ入れると、ヒカルに付き合ってくれた。

ショッピングに行き、何年ぶりかというカラオケに行き、付き合ってもらったお礼にと ファミレスで食事を終えた頃には11時を回っていた。


「悪かったな、今日はオレに付き合わせて。明日も仕事だろ?」

「いいよ、ヒカルと久しぶりに遊べたし、楽しかったもん」

「オレも楽しかった」

あかりといたら塔矢の事を少し忘れられた。

「ヒカル今日何かあったでしょ?ひょっとしてまた塔矢くんと喧嘩したとか。それとも緒方先生と何かあった?」

「何だよ、それ!!つうかなんであかりが緒方先生の事まで知ってんだよ」

あかりは妙に女の勘が働くが、緒方の事まで知るはず
なかった。

「えっと、この間の週刊碁にヒカルが緒方先生の代りに解説したとかで話題になってたから。
私良くわからないけど、女流棋士は解説はしないんでしょ?」

「まあ、ないな」

「それに塔矢くんと座間先生の放送見たから。ヒカルの解説と緒方先生の聞き手も見たよ」

「あかり、囲碁TVも観てるのか?」

「うん、最近、ヒカル対局とか、聞き手役とかでよく出演してるから
私、ヒカルが出演してるのはチェックしてる」

「そうなのか・・」

碁界に詳しくないあかりが気づくぐらいだから、一般の囲碁ファンも疑問に思ったかもしれない。
ヒカルは今更ながら解説を緒方と代わった事が浅はかだったかもしれないと思った。

「それで、やっぱり緒方先生と何かあったの?」

覗き込むように見るあかりにヒカルは今日何度目かわからない溜息を吐いた。

「何もねえよ」

そうぶっきら棒に言った後、ヒカルは思い直しあかりを見た。
あかりなら相談に乗ってくれるかもしれなかった。

「あのさ、あかり、オレ今日塔矢に『付き合ってくれないかっ』て告られた」

「えっ、えええ?!」

あかりが甲高い声を上げたので、ヒカルはシーっと人差し指を立てた。
ファミレスはこの時間、人はまばらではあったものの、振り返るとウエイターがこちらを見ていた。
あかりは『ごめん、あまりにも驚いたから』と目配せして手を合わせた。

「それで?」

「とりあえず保留になってる。けどオレ断ろうと思ってて」

「で、悩んでるんだ」

あかりに図星を刺され、ヒカルは止む無く「ああ」と頷き
発端となった『緒方先生』の事も話すとあかりは頬杖を突いた。

「もしヒカルは緒方先生から告白されたらどうするの?」

「緒方先生はオレの事なんか何とも思ってないって」

あれはただの噂だとヒカルは思ってる。

「『もし・・』だよ、もしものたとえ話、ヒカルはどうするのかなって思って」

「即決で断るよ」

「でも塔矢くんには即答出来なかったんだよね?」

「それはあいつがすごく真剣で傷付くんじゃねえかって」

あかりは目を丸くした。

「好きな人に拒否されたら誰だって傷つくと思うよ。でもヒカルは塔矢くんが傷つく姿を見たくなかったんだね」

ヒカルは『まあそうかも」と曖昧に相槌を返す。

「もしヒカルが迷ってるなら、塔矢くんと付き合ってもいいと思うけどな」

「オレあいつの事、恋愛感情ないし」

「そう?今のヒカル見てたら無理にも断る理由考えてる気がするよ」

「そんな事ない」

「そうかな、塔矢くんとヒカルは付き合い長いけどそれでも初めて塔矢くんの気持を知ったんでしょ。
お互いまだまだ知らないことがあるかもしれないじゃない。
だから私は『友達から』の付き合いがあってもいいと思う。これから知って行けばいいんだよ」

「塔矢はオレのライバルだし」

「ヒカルが認めたライバルが『好きだ』って言ってくれたん
でしょう?ヒカルは嬉しくない?」

「それは・・・」

あの時嬉しいと思う気持ちは確かにあった。
答えられないでいるとあかりが苦笑いした。

「結局はヒカルが決めることだけど。
でも一つ私からお願いがあるんだ。
もしヒカルが付き合いを断るにしてもその時に『ごめん』とか『悪い』とか謝罪は言わないでね」

「どうして?」

「自分の事を好きになってくれた人に謝罪するってその人の想いを拒否することになるよ。
『好きになってくれてありがとう』ってそういう気持ちでいないと。
断るにしても塔矢くんの想いはちゃんと受け止めてあげて欲しいんだ」

あかりに言われてヒカルははっとした。
ヒカルは『ごめん』とアキラに謝罪した。その上、『女を捨ててる』だの塔矢の想いを踏みにじる事ばかりを言ってしまっていた。

「はは、それ、もう遅いかも」

「ひょっとして謝罪したとか」

ヒカルは苦笑するしかなく、頭を掻いた。

「ヒカルはいつもそう。自分の事自虐的に言うんだもん。ヒカルは十分魅力的だし可愛いんだから、自覚を持たなきゃ」

それはどうだかと思うが、あかりと話をして少し前向きに
なれた気がした。

「けど、あかりに話聞いてもらってちょっとすっとした。塔矢は落ち込んでるかもしれねえけど、オレ今ならちゃんと向き合える気がする」

「そっか、私ちょっと期待しちゃうな」

「期待って?」

「ヒカルが塔矢くんが付き合うのだよ。ライバルで恋人なんて素敵だと思う」

「そ、そうか?」

力説するあかりにヒカルは力なく笑う他なかった。

「だったら前向きに考えようかな」

「そうだよ、断る理由考えるより、塔矢くんのいい所探す方がよっぽどいいよ、
まあ私に相談したんだから、返事したらちゃんと連絡してね」

「わかったけど、期待するなよ」

「うん、期待してる」

あかりは笑ってそう言った。





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