ヒカルが地下鉄を上がると街はもう外套とネオンが輝く時間になっていた。
今日は碁会所は定休日でそれは塔矢からメールで声がかかった時から知っていた。
煩わしい客にも遠慮せずやれると言う事だ。
定休日の看板がかかる碁会所にそのまま入店し、仕切りのある一番奥コーナーのいつもの席まで足を運ぶ。
客がいないのだからわざわざその席でなくてもよい気がしたが、そこが塔矢とヒカルの席でよほど混む事がなければ市川さんもその席に客は案内しなかった。
塔矢は椅子に座っていたが、棋譜並べをしていたわけでも、本を読んでるわけでもなかった。
席には碁盤もなく、そんな塔矢にヒカルは少し違和感を覚えた。
集中・・・してというよりも、塔矢はただぼんやり考えに耽ってい
る、そんな感じだ。
「よ、塔矢、来たぜ」
ヒカルがなるだけ明るくそう言ったのはそんな塔矢はあまり見たくなかったからだ。
驚いたように顔を上げた塔矢にヒカルは苦笑した。
「随分早いな。もう少し遅くなるかと思ってた」
「お前が誘っといてなんだよ」
口を尖らせたが特に怒っているわけじゃない。それは塔矢もわかってるだろう。
「外は寒かっただろう。何か入れてくる」
そういって立ち上がった塔矢は店内の小さなキッチンに入って行った。
ヒカルはその間に上着とリュックを傍らに置き、片付けられた碁盤と石をテーブルに置く。
塔矢の戻ってくるまで数分間にはすでに小さな碁盤の中に意識が入り込んでいた。
「進藤」
優しく掛けられた声にヒカルは顔を上げた。ヒカルの左手(碁石と反対側)
には紅茶が置かれ、塔矢はすでにヒカルの向かい側に座っていた。
恐らく塔矢がヒカルに声を掛けたのは1度ではないはずだ。
「悪い」
ヒカルは苦笑して、塔矢に碁盤の布石を示す。
「塔矢お前はこの形どう思う?」
塔矢はヒカルの問いかけに応えず、不審に思いヒカルは塔矢を見た。
「進藤、すまない。今日は少し君と話がしたくて・・・。勉強会は後でもいいだろうか?」
塔矢とは何度も勉強会をやっているが、そんな事を言われた覚えはなく、ヒカルは先日の対局の事だろうかと、怪訝に思う。
「何だよ、改まって」
「君に聞きたいことがあるんだ」
塔矢が少し困ったように表情を曇らせた。
碁会所に来たときから塔矢は様子が違っていて、ヒカルは強い口調を和らげた。
「ああ、うん、別に構わねえけど」
一呼吸置くためヒカルは塔矢の入れた紅茶を含んだ。
「君が緒方さんと付き合ってると言うのは本当なのか?」
ヒカルは含んだ紅茶が喉に引っかかった。
「なっ、」
口に手を当てゲホゲホ言いながら、テーブルから席を外し壁まで数歩歩いた。
「大丈夫か?」
塔矢から離れる為にそうしたのに、塔矢はわざわざヒカルの所まで来て背を撫でた。
塔矢の手の当たる場所が妙に熱く、それはもうこれ以上ない程恥かしかった。
ようやく収まりヒカルは『ああー』と喉を鳴らす。
「悪い、」
そう言って席を示すと塔矢の手が離れた。
改めて席に着いた後、ヒカルは塔矢を目の前に盛大な溜息を吐いた。
まさか1日に2度も同じことをやってしまうとは思わなかった。
しかも塔矢からなんて一体この噂どこまで広がっているのか。
「進藤、大丈夫?」
「もう大丈夫じゃねえよ、お前が変なこと言うから。つうかさその噂マジで広がってるのか。
和谷と伊角さんにも、同じ事聞かれたんだけど」
「僕は芦原さんから聞いたから。ただの噂・・ではないなと」
同門下の芦原さんから塔矢が聞いたとすれば、塔矢が本気にするのも無理はないかと思う。
「オレと緒方先生とは何でもねえし、これから先もどうこうなることねえから。
そんな話が出たらデタラメって言ってくれよ」
「本当に何もないんだな」
「あるわけないだろう!!」
ヒカルは流石に口調を強めた。
「わかった」
「それで・・。お前がオレに聞きたいことってその事かよ。一体何かと思ったろ」
ヒカルは力なく笑って、でも少しホッともしたのだ。ひょっとしたら佐為の事かもしれないとよぎったのだ。
「他にも君に聞きたいことがあるんだ」
「なんだよ、まだあるのかよ」
内心戦々恐々しながらヒカルは『今日はもうなんだよ』、と心の中でつぶやいた。
「先日の名人戦、最終予選で君と対局した日、君の体調が悪かったと言うのは本当なのか?」
「対局中の事じゃないぜ?対局後の事だから」
『対局後』というのを強調したのは誤解されたくなかったからだ。
だが塔矢はヒカルのその返答に顔を曇らせた。
「あの日僕は投了すればよかった」
「お前何言ってんだ!!」
ヒカルはまさか塔矢がそんな事を口走るとは思わず、机を叩いて立ち上がった。
「一勝の重荷を知ってるお前が口にすることじゃねえよな」
怒鳴り声をあげ、やってしまったと思ったが、怒りの方が強かった。
そう、最終予選だったのだ。あと一勝すればヒカルにとっては初のリーグ入りだった。
「オレがどんな思いで・・・。」
後は言葉にならず後悔だけがあった。ようやく次に気持ちを切り替えた所だったのにだ。
ヒカルの怒りを塔矢はただ静かに見上げていた。それに余計に苛立ちをヒカルは覚えた。
「君がどんな思いで対局に臨んだか、それは対局者だったこの僕が一番知ってる。
君は対局者の時間切れ負けを狙うような勝ち方はしないだろう」
「しねえよ、けどあれはそういうのじゃなかったろ」
「君が2目半勝っていた」
「塔矢、お前、いい加減にしろよ!!」
まだ言うかとばかりにヒカルはもう1度『バン!』と思い切り机を両手で叩いた。
今日はもう怒りは納まりそうになく、お互いのほとぼりが冷めそうにないと、置いていたリュックと上着を握り塔矢に背を向けた。
「今日は帰る」
怒りだけじゃない。
あの対局を思い出すと悔しさがどうしても募る。塔矢の言うとおりヒカルが勝っていた。
でも負けは負けだ。
いつまでも引きずってるわけにいかないのだ。
「進藤!!」
呼び止められ足を止めたのは塔矢の声が必死だったからだ。
「君を怒らせるつもりはなかった。」
「今日のお前ちょっとどうかしてるぜ?」
振り返りもせずそう言うと『そうかもしれない』と塔矢が自笑するように言った。
お互いの微妙な距離がもどかしく、このまま帰るべきか迷ってるいると塔矢が椅子から 立ち上がった音がした。
「進藤、君が好きだ」
「えっ?」
聞き間違いかと思い、ヒカルは振り向いた。
「僕は君が好きだ」
真顔でまっすぐにヒカルを見つめる塔矢の瞳は、揺れていた。
なぜ突然そんな事を塔矢が口走ったのか真意がわから
なかった。
「本気で言ってるのか?」
まさか、という思いの中に動揺がある。塔矢がこんな事を冗談や軽口で言うはずない。
・・・が、あまりにも唐突で突然すぎた。
「本気だ。君は普段恋愛に無頓着を装ってたから、緒方さんとの事を聞いたとき動揺した」
「それで今日のこれなのか?」
塔矢の様子はヒカルの目から見てもおかしかったと思う。
「我ながらみっともないと思ってる。緒方さんと君がと思ったら僕には後悔しかなかった」
「ただの噂だろう」
「本当に噂だけなのか?」
「そう言ってるだろ!!」
再び怒鳴り声をあげ、ヒカルはふっと溜息を吐いた。
こんな塔矢は知らなかった。まして塔矢がヒカルを好きだったなんて、思いもしなかったことだ。
「進藤、君は好きな人はいないのか?」
静かに射抜くように塔矢がヒカルを見る。心の奥で浮かびそうになったその人を閉じ、ヒカルは塔矢の視線を逸らした。
「そんなやついねえよ」
「だったら僕と付き合ってくれないか?」
「オレはもう女捨ててるっていってるだろ」
「それでもいい!!」
苦悩の色が塔矢の表情に映る。
それ以上言えなくなってヒカルは口をつぐんだ。
「今のままの君でいい。男として振る舞おうとそれでいいんだ。僕はそんな君を好きになったのだから」
『好き』と言われるのは照れ臭くも、むずがゆくもあった。嬉しくないと言えば嘘になるだろう。
塔矢はヒカルが認めたライバルだし。
けれど恋愛となると皆目わからなかった。
「ごめん、オレ・・・」
塔矢を直視することが出来ず、その後の言葉が紡げなかった。
「返事は今すぐじゃなくていい」
今すぐ返事したら、受け入れられないと塔矢は思ったのだろう。
そしてそれはヒカルもそうなのだ。
断る理由ばかりを今必死で探してる。
ただ引き延ばした所で返事はかわるだろうか?
「ああ」
ヒカルはそれ以上言えなくて手に持つリュックを背負った。
「今日はもう帰るな」
塔矢は何も言わなかった。
1歩1歩、と歩き進めながら突き刺すように背中に視線を
感じる。
何か言わなきゃいけないと思うのに、足は心と裏腹に遠ざかる。
扉まで来てヒカルは振り向こうとしたが出来ず、そのまま街の中雑踏へと飛び出した。
苦悩の表情を浮かべた塔矢の顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
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