今日は昼過ぎから和谷の部屋で研究会だった。
狭い部屋に所狭しと置かれた鞄と、賑やかさが和らいだのは
明日は遠征に行くという小宮と本田 冴木が帰ってからだ。
「ちょっと一服するか」
ヒカルと和谷、伊角の3人になり、
和谷が机に退散させていたジュースと菓子を床に置く。
菓子の中にあったチョコレートはたぶんまたそうなのだろうと
ヒカルは訊ねた。
「これ、伊角さんが今年貰ったやつ?」
「そうそう、オレらが研究会に買うには高級すぎるだろ」
ヒカルも一つつまみながら味わう。確かにその辺のスーパーの味ではない。
「伊角さんは今年も礼状を出すのか?」
伊角は毎年貰ったプレゼントに住所が添えられていたら礼状を出していた。
そう言った真面目な所も人気があるのだろう。
「礼状っていっても棋院が用意してくれたものに、サインか一言
添えるだけだしそんな大したもんじゃないよ」
伊角はそう言うが、それだってヒカルにとっては大したものだ。
「それでも住所やあて名は1人ずつ違うわけだろ、オレは出来ねえな。
つうかさ、伊角さん、女流棋士からも貰っただろ?」
「ああ、まあ」
誤魔化すという事が苦手な伊角はヒカルのその質問に
苦笑した。
「もしオレが伊角さんにチョコレート贈ってもサイン入りのハガキが貰えるのか?」
「え、進藤にサイン?」
伊角は想像出来なかったようで、ヒカルは冗談とばかりに手を振る。半場呆れたように和谷が言う。
「進藤、お前伊角さんのサインが欲しいのか?」
「えっ?いや、今のは、」
イベントなどに行って伊角がファン宛てにサインを書いている時に欲しいと思った事が一度ならずあった。けれど親しい仲だからこそそんな事は言うのは気恥ずかしかった。
「欲しくないと言ったら伊角さんに失礼だろ。けど欲しいと言ったらなんかそれはそれで変な感じだし」
無難な返事を選んだつもりだったが、和谷は大笑いした。
「なんだよそれ、伊角さん進藤にサイン書いてやれよ?」
「えっと、」
伊角はどうしていいかわからないというように和谷とヒカルの顔を見比べた。
「いや、冗談だから、伊角さんいいよ」
否定しながら頬が赤くなるのをヒカルは感じていた。
和谷はこういう事に勘が働く。
何も言わないが、以前ヒカルが伊角を憧れていた事をおそらく知ってる。
そして今は諦めていることもだ。
「そういえばさ、」
和谷はヒカルの様子を伺うようにちらっと見て頭を掻いた。
「ちっと進藤に聞きにくいこと聞いていいか?」
話題を変えてくれたのはいいが、『聞きにくい』というのは
引っかかる。
「聞きにくいならやめろよ」
ヒカルの反論に伊角はもっともだと頷く。
「伊角さんも気になっていたろ?」
「あの噂か」
「噂ってオレの?」
ヒカル自身の噂と言われると聞きにくい事でも気になった。
「別に答えられることなら言うぜ」
「そうだよな。もし違ってたら否定しねえといけねえしな」
和谷はひとりごちるようにそう言って、それを口にした。
「進藤、お前緒方先生と付き合ってるって本当か?」
ヒカルは飲みかけていたジュースを吹きそうになる。
「んなわけないだろ!!」
「やっぱただの噂だよな?」
和谷に念を押されながらも、先日の事がその噂の発端であることはヒカルにも想像がついた。
「当たり前だろう。なんでオレが緒方先生となんだよ。意味わかんねえだろ」
「ああ、そんな必死に否定しなくても大丈夫だから。
進藤が緒方先生とって言う時点で変だな、とは思ったんだ
けどな。
一つ忠告な。緒方先生は相当な女たらしだから、免疫のねえ進藤なんて、あの人が本気になったらいちころだと思う」
「どういう意味だよ」
概ねは意味が解る。解るのだが、『免疫がない』だの、『いちころ』だの、自分の意志の問題だろうと怒りにも似た思いがふつふつ湧き上がる。
「ああええっと、」
言葉を濁す和谷に伊角が補った。
「その気がないなら緒方先生にきちんと断った方がいい。
進藤だから大丈夫だろうってオレは言ったんだけど、和谷は
緒方先生に下心を感じるし、危ないって」
二人が心配してくれているのは解ったが、『それは誤解』という事だけは、はっきりさせておきたかった。
「この間、最終予選で塔矢と対局した時、オレちょっと体調悪くして先生に自宅まで送ってもらったんだ」
その時の先生は本当に心配してくれていたと思う。というか、そんな下心が緒方にあるとはとても思えなかった。
まして相手はヒカルなわけだし。
「そういう相手の優しさっていうか気配りをさ、下心って疑うのはちょっと嫌なんだよな。
まして相手がオレなんて先生も嫌だと思うぜ」
和谷はヒカルの話を聞いて長い息を吐いた。
「まあその時の事情はわかったけど、その後のリーグ戦の解説の緒方先生と進藤との件も聞いてるぜ。
解説と聞き手を交代したんだろ?普段の緒方先生ならそんな事絶対しないって。
十段としてのプライドもあるしな。それをお前に譲ったんだ。オレはただの親切心だけじゃねえと思うけどな」
確かに和谷の言い分は少しあるかもしれなかった。
タイトルホルダーが聞き手に甘んずるなど、前代未聞だった。
週刊碁でも記事になったぐらいだし。
ヒカルが考え込むと伊角がポンポンとヒカルの肩を叩いた。
「和谷の考えすぎじゃないかってオレは思うけどな。緒方先生が進藤を認めて聞き手に回ってもいいと思ったのかもしれないじゃないか」
こういう伊角のフォローや優しさはヒカルはありがたかった。
「伊角さんは甘いんだよ。
今、進藤が緒方先生の事を何とも思ってなくても、好意的な行動や態度で揺れるかもしれねえし、惚れるかもだろ?」
そんな事はないと思いながらもあの時(塔矢との対局後は)確かに凭れかかってしまいそうな気持ちはあった。
「男女の関係だし、それもあって当然かもだけどな。
ただ先生のペースに嵌められて進藤が流されてしまうのはダチとして許せねえんだよ。進藤が惚れてるやつがいるなら猶更な」
「そんなやついねえし、大体オレはもう女捨ててるよ」
いつも自身にそう言っていたが、今日はひどく自分の言った言葉が胸に突き刺さった気がした。
「進藤、どんな事でも悩みあったらオレたちには言えよ。もし緒方先生と付き合うことになってもな。ダチなんだからさ」
和谷は「ダチ」という言葉を使ってくれた。それはヒカルが『女の捨てた』と言った事もふっくるめてなのだろう。
「万が一にも緒方先生とどうこうって事はねえけど。何かあったら二人には相談する」
「ああ」
3人の雑談も一区切り付きそうな頃合いを待つように、携帯がメールの受信音を伝える。
ヒカルがポケットから取り出すと、携帯を開けるまでもなく短い言葉で用件が綴られていた。
>研究会の帰りに寄れないだろうか?遅くなっても構わない
塔矢からだ。
メールを見てヒカルはふっと溜息を吐いた。今日は和谷の研究会と知っていて、頃合いを見計らってメールしてきたのだろう。
「ひょっとして緒方先生からとか?」
怪訝に顔を顰めた和谷にヒカルは『違う』と首を振った。
「塔矢だよ、これからあいつと勉強会」
勉強会とはメールには書かれていなかったが、塔矢が声かけてくるのはそれしかなかった。
返信に思案し、指を止める。
「塔矢との二人勉強会は相変わらずなのか?」
伊角に聞かれヒカルは渋々頷いた。
「二人だと、周りに気兼ねえから。勃発するとすげえ事になる」
「それでもやるんだからある意味すげえよな」
「オレも、つくづくそう思う」
ヒカルはそう応えながら『行く』とだけ短く返信した。
「けどあいつと打つとやっぱり得られるものがあるからさ」
ヒカルは飲んでいたジュースを飲み干すと紙コップをゴミ箱に投げ入れた。
「今から行くのか」
「なんだったら二人も一緒に行くか?」
『遠慮しておくよ』 『遠慮するぜ』
即答した伊角と和谷の声がハモりヒカルは笑った。
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