月光交響曲
16 大会)







イベントを終え公民館の控室に戻りヒカルは深く椅子に
腰かけた。
部屋は4畳半程度で小さいながら、それなりのものが用意されている。
服を着替え、前髪を戻していると部屋をノックする音があった。
嫌な予感を感じながらヒカルは『はい』と声を返す。

「俺だが」

緒方の声に案の定と思いながら思案したが、追い返しても緒方は待ち伏せするだけだろう。
わざわざ東京から地方の小さな大会に出向いてきたぐらいなのだから。
ヒカルは小さくないため息を吐くと『ちょっと待って』と声を掛けた。

扉を少し開けるとすっかりと帰る準備を整えていた緒方がそこにいた。
緒方は挨拶に顔を出しただけかも知れないと思いヒカルは警戒を緩める。

「先生今日はお疲れさま、これから東京に戻るんだろ?」

「ああ、進藤少しいいか?」

「控室にか?散らかってるぜ」

髪を戻していたこともあり、部屋はまだ散らかっていた。

「そのぐらい構わんさ」

緒方はノブをつかむと解せずそのまま部屋に入る。
ヒカルは顔をしかめた。

「ここまで来たんだ。少しぐらい構わんだろ?」

「ここまで来たのは先生の勝手だろ?」

「お前がこのイベントに来なければ来なかったさ」

「あ〜、先生あのさ」

「言わなくていい。どうせ断るだけだろ」

ぴしゃりと言われ、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「一つだけお前に聞いておきたいことがある」

「なんだよ」

真顔になった緒方にヒカルは少しヒヤリとする。

「お前にとって一番大切なものを『オレが欲しい』と言ったら
どうする?」

ヒカルは緒方の言葉の意味を測り兼ねた。

「良く意味がわかんねえんだけど」

「言葉のままだが」

ヒカル自身の事ではないと直感的に感じた。
なぜなら緒方はヒカルの想いを知ってる。先ほどの返答を考えてもだ。
ヒカルが一番大切なもの。
それは晃に他ならない。だが緒方には晃の存在を教えてはいない。
それに『欲しい』という言葉も引っかかった。

ヒカルはそう思いまさか、と緒方を見上げる。緒方は眉間にしわを寄せたままでヒカルは緒方の内面まで読み取ることができなかった。

「まあいい、今日は収穫があったし。そのことも含めて考えておいて欲しい」

緒方はそれだけ言うと退出しようとして、ヒカルはその背を無意識近く呼び止めた。

「ちょっと待てよ、先生それって・・・」

緒方ならヒカルのことを調べることぐらいするかもしれない。
言いかけた言葉を躊躇ったのは、自身からその事実を告げることに他ならないことだ。

「大人の事情なのだろう?」

振り返った緒方は口元で笑う。ヒカルは緒方が晃の存在を知っているのだろうと確信し、顔を歪めた。
そうすると緒方がヒカルの染め直した前髪をぽんぽんと叩いた。

「そんな顔をするな。オレはお前を困らせるつもりはない。それだけはわかってくれ」

少し名残惜しそうに緒方の手が離れる。

「じゃあな、進藤。次の仕事は対局相手として迎え打ってくれよ」

「ああ」


緒方が退出しお互いに体裁を保ったままでいられた事にホッとする。

ただもうそう長く、晃の事を隠すこともできないだろう。
せめて晃が小学生になるまで と思い、ヒカルは拳を握った。







その日の夜、晃はヒカルと二人になると興奮気味に聞いた。

「ねえ母さん、囲碁で一番強い人って誰だろ?」

唐突で子供らしい質問にヒカルは苦笑した。

「母さんは本因坊秀策だと思うぞ」

晃は秀策の事を知っていた。晃に『棋譜打ちをするなら
秀策がいい』と勧めたのは他ならぬヒカルであったし。

「昔の人じゃなくて、今の人で」

「日本の人で?」

「うん」

ヒカルは緒方の顔が一瞬浮かんだが、振り払った。

「塔矢名誉名人かな?」

「とうやめいよめいじん??」

「長く名人だったんだ。引退されたけど、今も活躍されてる」

「母さん『とうやめいよめいじん』って二人いるでしょ?」

ヒカルはドキリとして晃を見た。まさか晃がそのことを知ってるとは思わなかったからだ。

『塔矢アキラ名誉名人』
アキラが亡くなった後に与えられた称号だ。

「ああ、そうだな」

「ややこしいね」

晃の子供らしい言葉にヒカルは思わず笑う。

「そうだな」

「僕教室でとうやめいよめいじんの棋譜打ちしたことある。どっちのだったんだろ。でもどっちって言われてもわかんないか」

ヒカルは笑いながら晃に言った。

「棋譜覚えてるか?」

アキラの棋譜は出回っているものはすべて覚えてる。
もちろん塔矢先生の棋譜もだが。

ヒカルが晃に聞くと『う〜ん』と碁盤を前に考え始める。
しばらくしてぽつりぽつりと置きだした手を見てヒカルは苦笑せざる得なかった。佐為と塔矢先生がネット碁で打った棋譜だ。教室この棋譜を選んだのは和谷だろう。


ヒカルは切なくも、嬉しくもなる。
こうやって佐為と先生の対局は打ち継がれて行くのだろう事を思うとだ。

「まさに秀策の碁だな」

「どういうこと?」

「塔矢先生の打った相手はわかっていないんだ。だからさ」

晃は首を傾げる。近い未来アキラの事も伝える日が来るだろう。
その時、やっぱり晃に一番伝えられるのは棋譜なのだろうとヒカルは思う。

「それでこれはどっちのとうやめいじんなの?」

「行洋先生の打ったものだ」

「もう一人のとうや名人は」

「アキラって言うんだ」

ヒカルは初めて晃に告げたその名に声がわずかに震えた。

「アキラ名人?」

ヒカルは「ああ」と頷き、晃に『アキラ名人はもういない』事を告げようか迷ってる間に晃が一人頷いた。

「僕、時々『あきら』って間違えられるから知ってる。二人の名前覚えるね」

ヒカルは晃の子供らしい発想に笑った。
晃に助けられることは沢山ある。
晃がいるからまた頑張ろうと思える。
ヒカルはぎゅっと晃を抱きしめた。

「お母さんどうかした?」

「いや、晃遅くなったしもう寝ようか」

「うん」

その日の晃は興奮したようで布団に入ってからも言葉が多く、寝付くまで時間がかかった。



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