晃が幼稚園も年長にもなる、春休みもまもなく終わりという日。
通い慣れた棋院の囲碁教室も今日で終わり、また次は夏休みになるだろう。
晃はいつも以上に早く教室に来て、送ってくれたお爺ちゃん(曾祖父)に大きく手を振った。
お爺ちゃんは晃を教室に送った後は下の碁会所で碁を打つのがお決まりになっていた。
伊角の授業には1時間以上まだあったが、教室には晃よりも早く
来た生徒がいた。
「晃、春休みも来たんだな」
4年生になる隆は昨年末から上のクラスに上がっていてここしばらく晃は会っていなかった。
「うん、隆くん久しぶり」
「強くなったか?」
その質問に晃は照れたように笑った。
「たぶん」
「オレもうすぐ上がるぜ」
「院生になるの?」
「ああ、試験に受かったし、もちろんプロにもなる」
目を輝かせて言った隆を晃は羨望の眼差しで見る。
「お前もすぐ上がるだろ」
「上がっても通えないし」
「いいじゃないか、休みの間だけでも。お前すでに上でも結構有名だし弟子入りの話とかそろそろあるんじゃねえ」
弟子入りの事は緒方に声を掛けられてから晃は自分なりに考えてるつもりだった。
「隆くんは弟子入りするの?」
「オレは親がプロだし。でもお父さんは師匠になりたくないんだって」
「どうして?」
「よくわかんない」
隆くんは本当にわからないという感じで、でも少し寂しそうにも聞こえた。
「お父さんの師匠の横山先生に弟子入りする事になるかな?お前は伊角先生か和谷先生に弟子入りするのか?」
考えたこともないことを言われ晃は首を傾げた。けれど緒方名人よりも現実味がしたのは、伊角先生や和谷先生の方が晃にとって近い存在だったからかもしれない。
「そういや、お前って進藤女流棋士の親戚か何かか?」
「進藤女流棋士って一番女性で強いっていう?」
晃は盛岡の大会でおじさんたちがそう言っていたのを思い
出した。
「女性最強かは知らないけど、強いっていうよな」
「違うと思うけどどうして?」
「お父さんが、言ってたんだ。進藤晃って「しんどうひかる」って間違えられたりしないかって?」
晃は聞き間違えかと思って隆をまじまじと見た。
「進藤ヒカルは僕の母さんだけど」
「ええっマジか?進藤女流棋士って結婚してたっけ?」
「きっと同じ名前なだけだよ」
晃はそう言ったが、隆は納得しなかったようだった。
晃は母さんがプロ棋士なんて聞いたことがなかった。
いや、あの盛岡の大会の後、ひょっとしたらと過ったのにそこまで考えが及ばなかったのだ。
けれど、今になって緒方の言葉も思い出す。
『お前の母親は強い』と言ったこと。それにあの時母さんは盛岡の大会会場の中にいたのではないだろうか。
「晃、ちょっと待ってろ」
隆はそういうと教室にある本棚を漁りだす。
「どうしたの?」
「月刊碁とか絶対進藤先生なら載ってると思ってさ」
「僕月刊碁は時々みるよ」
「見てもお前字読めないだろ?」
隆の言う通りだった。本を見ても棋譜と写真だけだ。
プロの先生の名前だけは教えてもらって、読めるというより
見覚えてるという感じなのだ。
隆が何冊か探してるうちに教室に晃より3つ上の多紀が顔を出した。多紀も両親がプロ棋士だった。
「隆来てたの、何してるの?」
「進藤ヒカル先生が載ってる記事探してるんだけど」
晃はこれ以上事が大ごとになるのは子供心にまずいような気がした。
「隆くんもういいよ」
「いや、よくないって」
隆は多紀に聞いた。
「進藤先生って何年前、世界大会で優勝してるよな?」
「進藤先生?」
「多紀知らねえの?」
「女流の進藤先生の事?母さんから聞いたことある。
今は女流棋戦に出てないけど出て来たらタイトル全部持ってくだろうって」
「伊角先生とペアで世界大会も優勝したんだぜ?」
「だったら伊角先生に聞いけばいいでしょ」
二人の会話に晃はドキドキ胸が鳴る。母さんが世界大会に優勝したなんて、にわかに信じられなかった。
でももしそうだとしたら、なぜ今まで晃に黙っていたのだろう。
晃は突然立ち上がると、持ってきていた荷物を片肩にかけた。
「晃どこ行くんだ?」
「ちょっとトイレ」
「トイレに鞄まで持ってくのか?」
トイレじゃなかったけど、どうしても確かめたかった。隆や、多紀からでなく自分の目で、耳で。
教室を出て階段を下り降りると、ちょうど伊角がロビーに入ってきたところだった。
「晃くん、どうしたの?」
「あの、伊角先生!!」
晃は伊角をまっすぐに見上げた。
けれど聞きたくても、出て来ない声に泣きそうになる。
「教室で何かあった?」
晃は首を横に振る。
「大丈夫、言ってごらん?」
伊角は膝を折り、晃の視線まで腰を落としてくれた。
開いた口から乾いたような声で『かあさん』どだけ発し、その後はまた言葉にならない。
「晃くんのお母さんの事?」
伊角に励まされ頷くと、喉に詰まっていた言葉が出た。
「母さんがプロ棋士って・・・」
伊角は小さくだが頷いた。
「知らなかった」
伊角は誰もいないことを確認して、ロビーのソファを晃に示した。
「少し話そうか」
少し大き目のソファに二人並んで座る。そうすると晃はセキを切ったように話し出した。
「じゃあ母さんが女流棋士で一番強いのも、先生と一緒に世界大会で優勝したっていうのも本当なの?」
「ああ、晃くんのお母さんは強いな。女流で一番かどうかはわからないけど。でも先生は少なくともそう思ってる。
それに世界大会で優勝したのも本当だ。
ペア碁部門で先生と二人で日本代表になったんだ」
「そうなんだ」
伊角は晃の背を撫でた。晃がその事実を飲み込むまで、そうやっていてくれた。
「晃くんは、お母さんがプロ棋士だって知った気持ちは?」
「よくわからない。嬉しいけど、その遠いし。何で言ってくれなかったんだろう」
「教室の友達から聞いたのかな」
「隆くんが来てて、僕の名前『しんどうひかる』って間違えられないかって、話になって。
「進藤ヒカル」は母さんの名前って言ったら、記事を探し出して」
「『進藤ヒカル』はプロ棋士だけど、晃くんのお母さんだ。
それは間違いないことだから。
ただできればもう少しお母さんが本当のことを晃くんに言うまで待ってあげて欲しいんだ」
「わけがあるの?」
伊角は困ったように頭を掻いた。
「うん、まあそうかな」
「いつか母さんは話してくれる?」
「ああ、必ず」
晃は小さく頷いた。
「今日は教室に出れそう?」
あの教室に戻るには少し勇気がいりそうだった。
返事を返せないでいる晃の頭を伊角はぽんぽんと撫でた。
「今日で春休みの教室も終わりだし、少し開けるのもいいかもしれないか。
お爺ちゃんが今日も来てくれてるのだろう?」
「はい」
「だったら碁会所まで送っていくよ」
「でも先生教室は?」
「教室はちょっとぐらい大丈夫さ。春休みだから先生も早
くきたし、」
伊角はお爺ちゃんにも上手く話もしてくれると晃の手を握った。
「先生、僕母さんの棋譜みてみたい」
伊角は大きく頷いた。
「わかった。今度会うときに世界大会で打った棋譜を用意して
おくよ」
晃はそれに初めて微笑み、伊角は少しほっとする。
碁会所まで送り、平八と一緒に地下鉄を下るまで伊角は二人を見送った。
伊角はこのときにはもう、晃を自分の弟子にしたいと
考えていた。
和谷と「いずれは」と話して来たことだった。思った以上に早く時期が来てしまったのは予想内だったろうか?
進藤ももう判断を下す時期にきているのかも知れないと、棋院に続く坂を、遠い空を仰ぎ思う。
若すぎて亡くなった天才棋士を、
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