月光交響曲
15話大会)







晃は『仕事に行く』というヒカルが朝から慌ただしく家の中、走り回ってる姿に少し様子が違うな、と思う。

すっかり支度を終えたヒカルはすっぽりと帽子をかぶっていた。

「母さん?」

「晃、今日はみっちゃんの言う事ちゃんと聞けよ。母さん仕事だけど泊まりじゃないから夕飯は一緒に食べに行こうな」

すっぱりかぶった帽子から金色の髪が少し覗く。晃がヒカルに聞こうかどうかと思ってる間にも母さんは玄関を出ていった。



晃が美津子に手を繋がれ駅に来たのはお昼も近かった。
これから美津子が動物園に連れて行ってくれると言うが、駅まで来ると晃はどうにも大会会場が気になった。
晃は今日があの大会である事を覚えていた。

お母さんにダメだと言われたが、その理由を知らなかったし、何より大会がどんなものなのか興味もあった。
それに駅から会場は目の先なのだ。

「あのね、みっちゃん」

晃は手を繋いで歩く美津子に声を掛け足を止めた。

「どうかしたの?」

美津子と目が合い、晃は一瞬気後れる。
言っていいのか、どうか、考えていると美津子が苦笑した。

「ひょっとしてトイレ?」

そうではなかったが咄嗟に晃は頷いていた。

「うん。行って来ていい?」

「一人で行ける?」

「大丈夫」

「じゃあ、みっちゃんも行ってこようかな」

晃にとっては都合がよかったが、美津子には申し訳ない思いでいっぱいだった。
けれど本当の事を言って許してもらえそうにない。

駅の角を曲がり50メートル。
公民館入り口には『新春囲碁大会』の看板があり、字を
まだ読むことができない晃も『囲碁大会』の文字はわかった。
公民館の階段を全力で駆け上がると2階入り口に3〜4人の大人がおり晃は上りきる前で足を止めた。

勝手に中に入ってはいけないような気がしたからだ。

「どうかした?」

優しそうなおじさんが階段まで来て晃に話しかけてくれた。

「あの、ここで碁の大会をやってるって聞いたから」

「そうだよ、午前中の対局が終わって今はお昼休憩中だけどね」

せっかく来たのに休憩中とわかって晃はうな垂れた。そうすると別のおじさんが来る。その人は胸にリボンをつけていた。

「なに?ぼく碁に興味あるの?」

「あ、はい、でも」

「子供は昼からは指導碁があるよ。でも僕まだ小学生じゃないよね?ご両親と一緒に1時過ぎからおいで。今日はすごいプロの先生が来てるからね」

「すごい先生?」

先ほど話をしていた優しそうなおじさんが興奮気味に話す。

「緒方名人だよ。囲碁の世界で一番強い人なんだ!!それに進藤女流棋士も来られてるんだ!!」

「しんどうじょりゅうきし?」

「進藤先生は女の人で一番囲碁が強い方なんだよ。おじさんずっと復帰を待ってたんだ」

晃は『復帰』の意味が分からなかったが、おじさんが嬉しそうなことだけはわかった。

「女の人で一番囲碁が強いの?『しんどう』って僕と同じ名前
なんだ」

「へえ、ぼく進藤って言うんだ」

晃は緒方の名は知っていた。
棋院の教室で話題になったことがあったし、緒方の棋譜を
並べた事があった。もちろん会った事はなかったが。

そんな話をしていると一際背の高い存在感のある人が会場から
出てきた。
晃は知らなかったがここは公民館の喫煙所にもなっており、緒方も一服がてら出てきたのだ。

「噂をすればだよ、あれが緒方先生だ」

おじさんたちに言われる前から緒方はその存在感を放っており晃は目を離せなくなる。
そうして緒方と目があった瞬間、恥ずかしさや、戸惑いでドキドキする。

『囲碁で世界一番強い人!!』

緒方は胸ポケットに入れた手を一端抜き、階段まで来る。

「お前は・・?」

「あ、あの僕は進藤晃です」

慌てて挨拶しお辞儀するとおじさんたちの笑い声が周りから
した。
顔を上げると緒方も笑っていた。

「母親に会いに来たのか?」

「えっ?母さんここに要るの?」

「違うのか?」

『緒方先生お母さんってこの子の親御さんをご存じなん
ですか?』

周りに人がいた事に気づき緒方は『ああ、まあ』と頷き、晃の肩を軽く抱き寄せる。

「ちょっといいか?」

晃はわけがわからず小さく頷く。そのまま2人階段を下り、公民館から離れ人目のない駐車場入口まで歩く。

「あの・・?」

流石に晃も知らない人にこれ以上ついて行くのは不味いと足を止めると緒方も足を止めた。

「悪かったな、人がいる所で出来る話じゃなかったからな」

「はい」

何となく察して晃は頷いた。緒方は晃の目線に合わせるように腰を落とした。

「お前の噂は少し聞いてる。棋院の教室に通ってるだろ?」

「ええっ?どうしてそんな事を緒方名人が?」

「強い子がいると話題になってたからな」
その後緒方はぼそりと言う。『5歳で初段の腕前・・・とか』

晃は少し恥ずかしくなって下を向いた。この時になって急に美津子の事が心配になった。
きっと今頃いなくなった事に気づき晃を探してるはずだ。

「あの、僕そろそろ戻らないと」

そわそわしだした晃に緒方が笑った。

「お前何しにここに来たんだ?」

「大会を少し見ようと思って」

「それで見ずに帰るのか?」

晃が頷くと緒方は苦笑した。

「まあいいか、一つだけお前に言って置きたいことがある」

「はい」

「オレの弟子にならないか?」

思わず頷きそうになった晃は、そのことの重要さに気付いた。
教室の友達の中には弟子入りしてる子もいたし、プロ棋士が両親という子供もいた。
弟子になると言う事がどういう事なのか、晃はなんとなくも知っていた。

「すごくうれしいけど、その・・・母さんに聞かないと」

一番強い緒方の弟子になるのは、晃にとって憧れも魅力もあった。
けれど、そんな大事な事を勝手に決めるワケにいかない。
それに・・・勝手に抜け出してここに来た事も母さんに知られてしまうだろう。
目先の事に飛びつくわけには行かなかった。

「そうか、まだ母親に聞かないとダメなんだな。
だったらいつかお前が自分の意志でオレの弟子になるまで待ってやる」

そういうと緒方は胸ポケットから名刺を出し晃に渡した。

「オレの連絡先だ。いつでも気が向いたら電話してくれていい。もっともオレも忙しいから
すぐには返事出来ないかもしれないが」

「あの、今の話はいつまでに返事したら?」

「いつだって構わんさ。ただ他の奴に弟子入りする時はオレに一言連絡くれ」

緒方はそう言って晃の肩を抱くと表通りに戻る。
大会会場の前まで来て晃はどうしても聞いておきたくて一端足を止めた。

「緒方名人は母さんの事を知ってるの?」

「お前の母さんも、お父さんの事もオレは良く知ってる」

晃は緒方の言う『お父さん』に違和感があった。
お父さんはお父さんだ。でも・・・。晃はこの時には
自分の父親が友達とお父さんとは少し違う事に気付いていた。
けれどそのことを聞いてはいけないような気がしていたのだ。

「母さんが囲碁関係の仕事だから?」

「お前の母さんはすごく強い。このオレが言うんだから間違いないさ」

「えっ??」

晃はお父さんの事も含め聞き返したかったが、緒方はもうそれ以上言わなかった。
晃がもう行かないと行けないこともわかっていたのだろう。

「あの先生ありがとうございました!!」

晃は貰った名刺をポケットに握りしめ、駅までの道のりを
走った。
走っている目の前に血相を変えてこちらに走ってくる美津子の姿があった。

「みっちゃんごめんなさい!!」

「晃心配したのよ」

美津子は晃をぎゅっと抱きしめる。
美津子は晃を怒るようなことはない。今だって勝手な事をしたのに晃を怒らなかった。
そんな「みっちゃんだから」晃はますます申し訳なくて、
『ごめんなさい。ごめんなさい』と何度も腕の中で言った。

「どうしても囲碁大会行きたくて・・・」

『やっぱり』と言うように美津子は溜息を吐いた。

「それで中には入れたの?」

「ううん、これからお昼休憩だって、それに僕一人じゃ中に入れないって」

「そう、よかった」

ぎゅっと晃を抱く美津子の腕に力が籠る。
美津子は晃が中に入れなかった事が良かったと言ったような気がした。

「ヒカルには内緒にしておくから、晃も内緒ね」

「うん」

ポケットの中の名刺を握り、晃は頷く。どうしても緒方とのやり取りだけは言う事が出来なかった。


→16話へ











碁部屋へ


ブログへ