2次予選1回戦を終え、手ごたえを感じながら対局室を出ると
そこに緒方と和谷がいた。
奇妙な組み合わせに内心苦笑いしながら
緒方に先に一礼して、和谷に話しかけた。
「今日もまだ2次予選なのに来てくれたのか?」
「結果聞いたぜ?伊角さんもいるんだけどな」
「そうなのか?」
当たりを見回したが伊角の姿はなかった。
「席外してる」
そう言って、和谷はゼスチャーで今しがた喫煙所に入って行った先生を示した。
和谷の言いたいことがわかって苦笑いした。
何か用があって来たのだろうが、どう対応すべきかという所
だろう。
ヒカルは声を落とした。
「何か話したのか?」
「あーまあ、進藤はこっちに戻ってくるつもりはないのか、とか。
最近の事をちょっとな」
ヒカルは溜息を吐いた。
「ちっと行ってくる」
「進藤、オレたちを出汁にしてくれていいぜ?」
「誘われたらそうする」
緒方のいる喫煙室に向かうには少し覚悟がいった。
今日の『2次予選1回戦に勝てば直接対局が近づく事を楽しみにしている』と緒方が言ったのは2日前の事だ。
ヒカルが喫煙室に入ると緒方はタバコを灰皿に押し付けた。
「先生オレに用があって来たんじゃねえの?」
「お前の勝敗が気になったからな」
勝敗なら速報でわかるし、わざわざ棋院まで来て待つほどの事はないはずだ。
、が緒方がそういうならその方がヒカルも都合がよかった。
「そっか、わざわざ来てくれてありがとうな」
「あの二人とこれから出掛けるのか?」
「えっと」
約束はしていなかったが、和谷は『出汁にしてくれていい』と言ってくれた。
それにヒカルは明日まで東京にいるのだからそうなる可能性は高かった。
「たぶんな」
「オレも加えろ」
ヒカルは思わず耳を疑った。まさか緒方がそんな事を言うなど思いもしなかったからだ。
「先生がいたら伊角さんも和谷もやりにくいって」
「オレが奢ろう」
「そういう事じゃないと思うけど」
「あの二人と出掛けると言うが、オレを追っ払うための口実
だろう」
図星を刺されヒカルは力なく笑った。『わかってるなら誘うな』と言いたい所だ。
「先生この間、『わかってる』って言ったじゃねえか」
「わかってるさ、お前の心がどこにあるかぐらい」
ヒカルは言葉を失う。
この人はどうしてこういう事をいうのだろうかと、
誰もが触れない事を、緒方はずかずかと土足で入ってこようとする。
「わかってるから、あいつらと一緒でいいんだろう」
緒方の意図がわからず、ヒカルが返答に窮していると
ヒカルの鞄に入れていた携帯が着信を告げヒカルは慌てて
取る。
相手の名にヒカルは緒方に断りを入れてから喫煙室を飛び出した。
「もしもし・・・ちょっと待って」
電話を受けながらも壁伝いを移動し、女子トイレに向かったのは美津子からだったからだ。
「母さん何かあったのか?」
「対局は終わってるの?」
「さっき終わった所」
「晃が40度を超える熱を出して」
「急なのか?」
今日は晃の誕生日だった。昨日家に電話した時、晃と直接話をしたのだ。
だが晃は普段と変わりなかった。
「昨日から微熱があったんだけど、お母さんも仕事だから晃もがんばるって」
晃は一生懸命我慢していたのだろう。
ヒカルは気づかなかった事に唇を噛んだ。
「明日は仕事らしい仕事はないし、今からそっち帰る」
「今からって、帰れるの?」
時計に視線を落とすと6時半を回った所だった。
この時間ならまだ間にあいそうな気がした。
着替えや荷物は祖父ちゃん宅に置きっぱなしだが、貴重品はないし置いて行っても差し支えない物ばかりだった。
「たぶん、大丈夫。なかったら夜行バスでも車レンタルしてでも
帰るし」
「無理はしないで、あんたに何かあったら困るんだから。
お父さんがなるだけ早く帰るって言ってるから。そしたら救急診療に連れてく、また連絡するし」
「わかった、晃の事頼む」
ヒカルは電話を切った後、急いでトイレを出た。
案の定というべきか緒方が廊下の壁際に凭れていた。
手洗い場で電話を掛けたし、聞かれてはいないはずだが。
「ごめん、オレ急用ですぐ盛岡に戻らないといけなくなかっ
たから」
「そうか」
緒方はそれ以上何もいわなくて、ヒカルは素通りして和谷のいた所まで戻る。
伊角も戻っていて、ヒカルは手短に『盛岡に戻らないといけなくなった』事を話す。
3人でエレベーターに乗り込むと和谷が端末で新幹線の時間を調べてくれた。
2人とも理由は何も聞かなかった。
「8時台が最終だけど最終の『はやぶさ』はほぼ満席みてえだな」
「自由席だと乗れるだろう?」
そう言った伊角にヒカルが首を振った。
「はやぶさに自由席はないんだ」
「7時台の列車だと席に余裕がありそうだな」
「ありがと。とりあえず東京駅に行ってみる」
「伊角さんオレたちも一緒に東京駅まで行こうぜ。どうせ
方向は一緒なんだしな」
「そうだな」
2人にそう言ってもらえるのは嬉しかった。1人だとどうしても余計な事が過る。
3人で棋院を出た瞬間、後ろからクラクションが2回鳴り響いた。
振り返ると緒方が車から顔を出した。
「急いでるのだろう。東京駅まで送ってやろう」
棋院から東京駅まではそれほど距離があるわけじゃないが時間帯もあり渋滞も考えられた。
「緒方先生気持ちはありがたいんだけどこの時間は混んでるし、進藤も電車の方が確実だろう?」
和谷がヒカルを代弁すると緒方が顔を曇らせた。
「大丈夫だ、絶対間に合わせる。和谷先生と伊角先生も一緒に乗って行くといい。進藤だけだと遠慮するからな」
伊角と和谷が顔を見合わせた。
流石にここまで言われると断る事が出来なかった。
「進藤オレたち一緒に乗った方がいいか?」
伊角に聞かれ迷ってる暇もなく。首を横に振ったのは2人を心配させないためもあった。
「サンキュ、大丈夫だ」
車に乗り込む前に和谷が小声で言った。
「いつか話してくれよ」
ヒカルはハっとして和谷を見た。
少しさみしそうな和谷の笑顔だった。
「ああ、今度会ったら」
和谷は勘が良く薄々気づいているかもしれなかった。
晃の事はいつか2人には話さなければいけないと思ってる。そういつまでも隠し通せる事じゃない。
「じゃあ」
2人に見送られ車が発車する。
携帯を立ち上げたが美津子から連絡はなく、ヒカルは閉じた。
緒方は理由を聞くことはしなかった。
「先生どうして急に?」
「困ってただろう」
「あーでもオレ先生が困ってても何も出来ねえぜ」
「オレは別に困ることはないし。何か返そうとか、そんな義理だてする事も考えなくていい。オレがやりたくてやってるだけだ」
緒方らしい返答に何も言えなくなりヒカルは口ごもった。
「何だったら盛岡まで送ってやってもいいが」
「いや、それは流石にいいよ」
緒方は赤信号の間にタバコを加えたが、結局点けずに箱に戻した。
「吸わねえのか?」
「進藤は嫌いだろう」
「オレの事は気にしなくていいぜ。先生の車なんだし」
「これ以上嫌われたくないからな」
そう言った緒方は少しさみしそうで、先ほど別れ間際の
和谷と伊角の表情を思い出す。
「嫌いってわけじゃないぜ。たださ、先生はずかずか触れて欲しくない所まで入ってくるだろ?」
言った瞬間緒方と交わした夜の事を思い出し、もっと言葉を選ぶ
べきだったと思った。
「オレは腫れ物に触るような事はお前にしたくない。そういう遠慮はいらんだろ」
「確かにそうかもしれねえけど、先生はデリカシーなさすぎるんだよ」
緒方はそれに苦笑した。
「わかった。今度からは気を付ける」
しばらく走って東京駅マジかで渋滞に捕まった。
「次の信号で端に寄せるがここから歩けるな?」
「うん、ここで十分だし」
路肩に車が止まる。
「先生ありがとうな」
ヒカルが車から出ようとしたが緒方はロックを解除しなかった。
「先生?」
一瞬の間の後だった。
「今はまだいい。いつか時が来てお前が考えられるだけの余裕が出来たらオレの事を考えて欲しい」
ヒカルは驚いて緒方を見た。緒方はハンドルを握ったまま前を
真っ直ぐに見据えていた。その表情は少し怒ったようにも、寂しそうにも見えた。
緒方が扉のロックを解く。
「冗談でも遊びでもない。オレは本気だ」
何も言えぬままヒカルは緒方に頭だけ下げると、東京駅に向かってひた走った。
緒方の言葉に心はざわついたが、それでもヒカルが向かうのは晃のことしかなかった。
晃にもし何かあったら、ヒカルは本当に全てを失ってしまう
だろう、とさえ思う。
それはアキラへの想いとも違う。
ヒカルにとって晃は自分の命よりも大切な魂なのだ。
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