晃が肺炎で救急病院に入院したというメールをヒカルが受け取ったのは新幹線の中だった。
盛岡駅ですぐにタクシーを捕まえ病院に飛び込む。
病室は個室で母さんが付き添ってくれていた。
薄暗闇の部屋のベッド脇には点滴に機材が並ぶ。
晃の表情がわからず、ヒカルは自然とアキラを看取った日を思いだし、背筋が凍りついたような気がした。
「かあさん晃は!!」
母さんが顔を顰めシーと人差し指を立て声を落とす。
「点滴と解熱剤を投与してもらって眠った所、熱も今は38度台まで落ちてる」
「よかった」
ヒカルは安堵して美津子が勧めた椅子に腰かける。
「今日は用心で個室になってるけど、少し落ち着いたら大部屋にしますって」
「付き添えるのか?」
「6歳以下の子は付き添いがいるのよ。添い寝になるけど」
「そっか」
ヒカルはほっとして晃の寝顔を見る。すやすや眠る姿は普段の晃とそう変わりない気がした。
「ヒカルが晃に付き添うの?」
「当たり前だろ、」
「あんたスーツしか持ってないでしょ。
対局後で疲れてるだろうし今晩は私が付き添うつもりでい
たんだけど」
「大丈夫だよ。それより家帰った方が心配で落ち着かねえし」
「だったらあんたの服や入院に必要なものを用意して明朝持ってくるわ。取りあえずのものしか持ってきてないのよ」
「うん、ありがとう、頼む」
母さんを見送った後、ヒカルは晃のおでこに手を当てた。それに気づき晃が暗闇の中薄ら目を開けた。
「母さん帰ったの?仕事は?」
「仕事はちゃんと終わらせてきたから心配するな」
晃はこんな時でも、ヒカルを気遣う。それにヒカルは苦笑した。
「晃3歳の誕生日おめでとうな」
こんな誕生日になってしまったが、ヒカルは晃にちゃんと伝えて置きたかった。
「おりこうさんじゃなくてごめんなさい」
「熱を出したことか?」
晃が小さく頷いた。
「そんなの気にすることじゃねえだろ。病気が治ったら、一緒に東京行こうな」
「本当?」
誕生日に欲しいものを聞いたとき、晃は東京に行きたいと言っていた。
「ああ、と言ってもお母さんの仕事の間は祖父ちゃん家で留守番だぜ?こっちとあんまし変わらないかもしれねえけど」
「ううん、晃じいじとばぁばに会いたい。新幹線も乗りたい!!」
「そっか、じゃあ早く治るようにもう寝ないとな」
「うん」
晃は頷いて目を閉じたが、布団の中でそわそわしだす。
「晃どうしたトイレか?」
「もう一つだけいい?」
ヒカルが頷くと晃は嬉しそうに話し出した。
「あのね、みっちゃんが碁を打つところ連れて行ってくれた」
「碁を打つところって、碁会所の事か?」
「そんな名前?いっぱい打って、13路もした」
ヒカルは内心で溜息を吐く。晃が打ちたいと言い出したのかもしれないが碁会所は晃にはまだ早いだろう。
それに、碁会所の客ならプロ棋士に精通した人もいるはずだ。
ヒカルが盛岡に引っ越した事もあるのか、それとも目立つ前髪を染め女性らしくイメージを変えたせいか、この街で『進藤ヒカル』だと周知されることは1度もなく安心していた。
これも地方の都市ならではなのだろうとも思っていた。
けれど、復帰してヒカルの記事や写真が出回ればそれもわからない。
でもこんなに嬉しそうに話す晃に『ただ駄目だ』と言うわけにはいかないだろう。
「晃の嫌いなタバコの臭いはなかったか?」
「ちょっとした」
「あの臭いは体に悪いんだ。だから晃にはまだ早かったかもな」
「それで熱でたの?」
「そうかもしれないな」
そんな事はないだろうが、そういう事にしておくのも手だろうとヒカルは頷いた。
「そっか」
晃は思いのほかしょんぼりして、ヒカルは罪悪感を胸に覚える。
棋院の子供教室の子供たちの様に晃にも碁を学ぶ場所があればいいのにと思いながら、晃の背を優しく撫でた。
「ほら、熱がまた上がって来てる。話はまた明日聞いてやるからもう寝ろ」
「うん、おやすみなさい」
晃は安心したのかすぐに寝息をたて、ヒカルもその隣に横になると安堵と疲れで眠りに落ちて行った。
緒方はその報告を冷静に聞いていた。
いや、緒方が冷静と思いたいだけで、内心は驚嘆していたかも
しれない。
けれど・・・。腑に落ちたし、どこかでそんな予感はしていたのだろう。
「その子がアキラくんの子というのは確かなのか?」
「十中八九です。ただ確実に調べる為には遺伝子検査をするのがいいでしょうね。されますか?」
「いや、そこまでしなくていい」
探偵社の報告と写真に緒方は顔を横に振った。提供された写真を見ただけでわかった。
出会った頃のアキラくんに生き写しだった。緒方が苦笑する程にだ。
およそ進藤に似たところを探す方が難しいぐらいだ。
緒方は提供された数枚の写真から1枚の写真を取り出す。
「この写真盛岡じゃないな、」
写真は進藤と晃が2人で手を繋いでいる写真だった。緒方が見覚えあったのは棋院近くのファミレスが後ろに映っていたから
だ。
「実は調査を依頼された後すぐ進藤さんがお子さんを連れて東京に来られたんです」
「進藤が子供を連れて仕事にきたのか?」
「いえ、お仕事の間は祖父の家に預けています。ただ一度棋院で行ってる子供教室には参加していたのをこちらで把握していますが」
「進藤と二人で?」
「いえ、お子さんだけです」
緒方は首を傾げた。棋院には子供がいる事は伝えてはいないはずだ。
「進藤さんはお子さんの事を極力隠されてはいるようですが、極仲の良い友達には伝えてるようで、プロ棋士の伊角さんや和谷さんはご存じなようですね」
緒方はそれで納得した。教室はその二人がやってるものだろう。
「塔矢先生はご存じないのだろう」
「お子さんのおじいさんに当たる方ですね。恐らくは伝えてはいないだろうと思います」
「そうか」
緒方は頬杖をついた。
進藤に子供がいたとしても緒方のこの想いは揺らぐことはないだろう。
むしろ余計に緒方が彼女を守ってやりたいと思うのは、進藤の一途な必死さを感じるからだろう。
アキラくんの子ならお誂え向きだと心中で自笑する。
「まだこれ以上調査を依頼されますか?」
「いいや、これで十分だ」
緒方は謝礼を払うと外に出た。
夕暮れが緒方の影を伸ばし、
タバコを咥え遥か遠くを仰ぐように空を見上げた。
この時間ならまだ大丈夫だろう。
知ってしまった以上、緒方にはどうしてもやらなければならないことがあった。
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