月光交響曲
秘密 9)







教室の後、伊角と2階まで階段で降り立ち止まった。
普段5時には閉まる売店が開いていた。

「伊角さんオレ売店寄って行くから」

「付きあわせたお礼に夕飯でもどうかと思ったんだが」

「サンキュ、でも今から幼馴染と会う約束してっからさ」

あかりとの待ち合わせまでは30分程度あった。ヒカルの仕事が
長びくかもしれないとあかりが市ヶ谷まで来てくれることになっていた。

「そっか、じゃあ礼はまた次に和谷と考えとくよ」

「そんなのいいよ。それよりまた機会あったら講師誘ってくれよ」

「そんな事言ったら進藤こき使われるぞ」

伊角は苦笑いした後小さく溜息を吐いた。
その様子から『こき使われてる』のはあながち嘘ではないのだろうと思う。

「でも、子供の成長とか楽しみもあるんだ。オレが講師始めてから最初の教え子で院生になった子もいるし、全国大会に出場した子もいる。
オレ自身考えさせられる事もあるな」

「教える方も子供から学ぶ事が多いってことだろ?それに子供たちだって身近な存在に『憧れのプロ』がいるというのもいいんじゃないか」

ヒカルが今日講師をやってみて感じた事だった。

伊角やヒカルにかじりつくように学んでいた。
小さくてもプロへの憧れとともに挑戦したいという思いがあった。
ヒカルは自然と自分が院生だったころを思い出していた。

「そうだな、といってもまだまだ子供だから喧嘩することも多いんだけど、進藤がそういってくれるなら、また頼むよ」

「ああ、伊角さんお疲れ様」



伊角を見送った後、ヒカルは薄暗がりの売店を覗いた。
店の奥で店主が荷物をかたずけていた。

「もう店閉まってる?」

「新しい書籍が来たから片付けてるけど、購入できますよ」

「じゃあ、ちょっと見せてもらうよ」

ヒカルが店内を見回していると、店主が電気をつけてくれた。

「ありがとうございます」

ヒカルはそう声を掛けお目当ての本を手に取った。
先ほど子供たちが使用していた、詰碁のドリルだ。
パラパラとめくり、『なるほどな』と感心する。
晃が今から始めるには丁度いいかもしれない。それにこれぐらいなら晃に買い与えても美津子に窘められないだろう。

ヒカルは何冊か選び、新書を手を取ろうとした所で、
店内に人が入った気配で振り返った。

「よお、進藤」

ヒカルは心臓が止まるかと思う程びっくりした。

「緒方先生!!」

「なんだ、その声と顔は」

自分がどんな顔をしていたかわからないが、驚いたことだけは確かだった。

「突然で驚いたんだよ。もー本当いきなりだな」

「そうか?仕事で2階事務所にいただけだが。それでお前は何を
してる?」

「何をって、棋院の購買だろ?囲碁用品や本を買うんだよ」

そんな事言わなくてもわかるだろうと、ばかりに声を上げる。

「それで買うのがこの本なのか?」

緒方はヒカルが持っていた本を1冊を目ざとく取り上げた。

「いいだろ、別に。今日子供教室の講師して勉強するんだから」

「子供教室?そんな勉強するよりも、自分の勉強をした方がいい
だろう?」

パラパラと本をめくった緒方にヒカルは顔をしかめ、本を取り戻す。

「勉強不足で悪かったな」

「そんな事は言ってないが」

緒方は苦笑して、新刊の中から1冊の本をヒカルに渡した。
思わず反射的に受け取ったがそれは緒方が監修した
本だった。
帯には『名人の究極研究譜・・・』などと書かれていた。

「今ならオレの直筆サイン入りだぞ」

買わないわけにはいかないだろうと、ヒカルは盛大な溜息を吐いた。

「わかったよ。けどサインはいらねえし」

ヒカルなりの譲渡だ。それからヒカルが何冊か本を選ぶ間、緒方は待っていた。
待たれてもヒカルにはこれ以上緒方の相手をする気はないのだが・・。
ヒカルが売店から出ると、案の定緒方が言った。

「これから食事でもどうだ?」

「もうその手には乗らないぜ」

「連れないな、1度は・・した仲だろ」

はっきり言わなかったが、顔が火照るのを覚え顔を振った。

「オレははっきり断ったよな」

「わかってる。ただお前は危なっかしいからな。ふいに幽霊にでも会いたくなるんじゃないかってな」

緒方の声はヒカルの頭の上で揺れていた。頭をぽんぽんと撫でられヒカルは顔を顰め俯いた。

はっきり言わなくても『アキラに会うためなら、どんな事でもしてしまうのではないか・・・』と、
緒方の指摘はあながちではない。

ただそれはヒカルの場合『死』ではなく、『精一杯生きる』という
事だ。
緒方に何も言い返せないまま、目頭が熱くなる。
緒方の前で弱みをみせるわけにはいかず、背向けた。

「先生じゃあ」

「明後日、お前が王座2次予選に勝てば、オレとの対局も
近づく。楽しみにしてる」

「ああ」


振り向かず階段を駆け下りた。
しらずしらず涙が溢れていた。



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