出立の朝、ヒカルは隣ですやすや眠る晃を見た。
早朝5時前で、起こさない方がいいだろうと静かに身支度を整える。
ヒカルの今回の東京滞在は5日間だった。
5日の間に公式戦が2度ある。棋院にお願いして調整してもらったのだ。
まずは名人戦の1回戦と、4日後はようやく2次予選に上がった王座戦。
3年も休んだヒカルは全て1回戦から公式戦に出場しなければならず、正直焦る気持ちはあったが今は一つずつ上がるしかなかった。
せめて女流棋戦に参戦出来たらもっと近道もあるのだが、
女流棋戦でタイトルを取ればTOP棋士のトーナメントにすぐにも名前を連ねる事が出来た。
しかしそれは晃との時間を減らす事になる。そうしてヒカルが恐れるのは晃の事が公になってしまう事だった。
父親が塔矢アキラなら猶更注目を浴びるだろう。
晃にはヒカルの仕事がプロ棋士だと言う事は伝えていなかった。囲碁に関する仕事をしてると言ってるので嘘をついているわけではないが、プロである事は両親にも内緒にして貰ってる。
いつか晃が自分の意志で目指すというなら、伝えなければならない時が来るだろう。
だがそれはもう少し先で、
もうしばらくは・・・。
そう思ってヒカルは寝息を立てる 晃に目を移す。
布団の上から優しく撫でると晃が気持ちよさそうに布団に包
まった。寝ている時は天使のようだとヒカルは心の中で笑う。もっとも起きていてもヒカルにとっては晃は天使だが。
後ろ髪引かれ部屋を開けると晃に呼び止められた。
「お母さん行くの?」
「ごめん。晃起こしたか?」
「ううん、お母さんお仕事頑張って」
「ああ、頑張ってくる」
晃に背中を押される。
いつまでもここに居るわけにいかない。
晃も我慢して言ってくれたのだから。
「行ってくるな」
ヒカルが対局を終えたのは3時を回り、朝からの移動も含め流石に疲れも感じた。
対局室を出ると和谷と伊角が待っていた。
「ひょっとして2人してオレを待ち伏せか?」
「進藤、もっと言い方があんだろ」
和谷に頭をぐりぐりされる。ヒカルは『もう』と笑いながら
髪を整えた。
「進藤お疲れ様、その感じじゃ勝ったみたいだな」
伊角が手に持っていた缶紅茶をヒカルに手渡す。
それはヒカルのお気に入りだった。
「サンキュ、疲れたときにはこれだよな」
開けて1口含む。
「それで、わざわざオレを待ち伏せで、缶ジュースまで買って何かあるのか」
「なんでそんな裏がある言い方するんだって」
和谷が口を尖らせると『実際そうだからしょうがないじゃないか』と伊角が苦笑いした。
「そうなのか?」
「いや、進藤今回少しこっちいんだろ?伊角さんが明日予定なかったら、子供教室の指導を頼めないかってさ」
「子供教室って棋院でやってる?伊角さん講師してるのか?」
「成澤先生の主催する教室で、オレも子供の頃通ってたんだ。
明日講師オレだけで、進藤が来てくれるなら助かるんだけどな」
ヒカルは思案する。明日は『あかり』と会う約束をしていたが、少し時間をずらせばなんとかなりそうだった。
「大丈夫だと思う。けどオレ、子供の指導なんてしたことない
ぜ?」
「進藤はそういった教室にも通った経験がないのか?」
伊角は子供の頃からそう言った囲碁の塾に通っていて、そこから弟子入りしてプロに なった事をヒカルは知って
いた。ヒカルにはどっちも経験のないことだった。
「全くなかったわけじゃないけど、すぐ辞めちまったんだよな」
「白川先生の教室だろ?」
和谷に聞かれてヒカルは頷いた。
「そうそう、おじさんやおばさんばっかでさ」
「けどそれを考えるとさ、進藤ってやっぱすげえよな」
「褒めたって何も出ねえけどな」
ヒカルも子供教室には興味があった。子供たちがどうやって囲碁を覚えるのか。勉強してるのか。
ヒカルは佐為からしか手ほどきを受けていないし、
晃にどうやって教えていいのか、何か参考になる事があるかもしれなかった。
「わかった明日子供教室の手伝いに行くよ」
翌日ヒカルが約束の時間より20分早く教室に入室すると、すでに子供たちが机に向かってえんぴつを走らせていた。
てっきり対局をしているものだと思っていたヒカルは少なからず
驚いた。
人数は7人ほど。
ヒカルの顔を見て、驚く子供もいればキョトンとする子供もいた。
プロの進藤ヒカルを 知ってる子もいるのだろう。
園児だろうと思う子もいれば小学校高学年ぐらいまでの子供もいた。
子供たちの手元をみると、女の子がプリントを隠した。
「見せてくれねえの?」
「手順がわかんない」
「大丈夫、間違ってても構わねえからさ」
渋々見せてくれたのは詰碁の問題プリントで消しゴムで消された跡がいくつもあった。
こんな問題集がある事をヒカルは初めて知った。
「これだとちょっと損をするかな」
「やっぱり!!」
女の子はぷっとほっぺを膨らませ、また消しゴムで消し始める。
「でもいい線言ってる。ヒントはいいか?」
「悔しいからもう少し考える」
「そっか」
どうやら彼女は相当な負けず嫌いらしい。隣の男の子はまだ机から顔が半分出てるかって感じで、数字も裏返ってるのも
あった。
晃よりもう少し大きいと思う。
その男の子がヒカルに終わったプリントを差し出した。
「つよし終わったから」
「わかった」
結構難度のある問題をやってると思う。
けれどこういうのは一瞬のひらめきも大事だし、問題を解くことで
似ている形が出てきた時にこそ発揮するのだろう。
ヒカルは考える前にパズルの様に解いてしまうが。
一通りの丸点けを終えた所で教室に伊角が顔を出した。
一斉に子供たちが伊角に挨拶をし、改めてヒカルの紹介もされた。
「伊角さん、子供たち来るの早いんだな」
ヒカルが伊角に耳打ちする。
「学校終わったらその足で来る子もいるから」
「自主的にやってるのか?」
「早く来た子から出来るようにレベルに合わせたプリントを用意してるんだ」
「対局はないのか?」
「5時から授業で、6時からが指導碁と対局の時間になってる」
伊角の授業は対局時計の使い方から、棋譜の書き方と多岐にわたる内容だった。
そして実際自身の打った6路の棋譜を書き起こすことになり、子供たちの手伝いをながらヒカル自身が驚いていた。
対局するだけじゃなく、こう言った知識を学ぶ事も囲碁の勉強だと言う事がだ。
ヒカルはそう言った事を一飛ばしていて、プロになってから知ったことが多かった。
「進藤、今日はありがとうな」
「いや、オレの方こそ、すげえ勉強になった。他にも色々やるのか?」
「もう一つ上のクラスになったら、実際友達の打っている棋譜書きや時計係もしてる。お互いにいい勉強に なるんだ。
他にもヨセや詰碁とか、時間の使い方とか。プロの先生の実況を聞きに行く事もあるし。プロ顔負けの勉強会になる時だってあるよ」
「へえ、みんなどれくらいから囲碁やってるんだ」
「大方幼稚園の頃とか小学校低学年とか。一番小さい男の子いたろ?
剛くんは4歳だけど。畑中先生のお子さんでたぶん物覚え
付くころにはやってたんじゃないかと思う。感覚がいいから」
ヒカルも確かにと思う。
「やっぱり早く始める方がいいんだろうな、」
「セオリーではそう言われてるけど、中学や高校から始めてプロになる人もいるし、子供のころからやってもちっともって人も
いる」
「塔矢もさ、こういうのやってたのかな」
伊角が一瞬驚いたようにヒカルを見た。たぶん
塔矢の名をヒカルが口にした事に驚いたのだろう。そういう所を
周りは気にしていて、触れないようにしてる事をヒカルは感じていた。
「塔矢はわからないけど、プロの先生でもお子さんを教室に通わせる人は結構いるよ」
「そっか」
実際の事は塔矢先生にも聞かないとわからないが。
ヒカルが晃に教えるだけは十分でないかもしれなかった。やはり同じ年頃の子供たちと打ったり、競う事も必要なのだろう。
だが、その現実の難しさをヒカルは思う。
ヒカルの子だとバレなけばいいのかもしれないが。
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