肩を抱く腕は時折髪をくすぐったり、力が籠る。
温かな素肌は心地良いが朝までは疲れるだろうし、痺れも
あるかもしれないと心配になり、無意識近く外そうと試みたが逃がすまいとするように肩を掴まれる。
「アキラ?」
声を掛けても帰ってくるのは優しい寝息だけで
アキラもほとんど無意識近い行動なのだろう。
そんな事を何度か繰り返し、寝すぎたような倦怠感で時間を
探す。
目のつくところに時計は探せなかったが、カーテンの隙間から
僅かに日が差し込んでいた。昨夜は雨が降り続いていたが
止んだのだろうとぼんやり思う。
ゆっくりとアキラの腕を外そうとしたが、やっぱり肩を掴まれる。
『用を足しに行きたいんだけど』とぼそりと苦笑した。
「ああ」
ようやく外された腕に名残惜しさを感じて、ヒカルはアキラを
見る。
アキラはまだ浅い眠りの中にあり、長い睫が僅かに揺れる。端正で綺麗なその顔に見惚れ、ほぼ衝動的に布団の中アキラの胸に顔を埋めた。
子供が親にするように甘えるような仕草で。
アキラが頭を撫で、両の腕に抱きしめられると満たされた想いに包まれる。
ヒカルを受け止めてくれる腕、他ならぬアキラだからこそ
それはとても心地よくて、もう少しと強請りたくなる。
「用を足しに行くんじゃなかったの?」
「やっぱり・・もう少しだけ」
アキラが微かに笑う。
「僕も、君を感じていたい」
恥ずかしかった台詞も臆面なく聞けるようになったのは、そういった言葉も大事だと 思えるようになったからかもしれない。
しばらくそうしてからヒカルはアキラから離れ、脱ぎ散らかされた床の衣類を拾った。
「ついでで風呂も借りるな」
「ああ」
体の奥、軋む痛みも今はただ甘さと心地よさを纏っていた。
熱目のシャワーを頭から浴びる。
鏡に数か所鬱血した場所がある事に気づき、ヒカルは顔を顰めた。
「もう・・・何やってんだよ」
悪態を吐いたもののアキラに触れられた場所だと思うとそれも愛おしい気持ちになりヒカルは苦笑するしかなかった。いつの間にか自分の方がこんなにもアキラに惹かれてる。だからこんなにも満ち足りた気持ちでいられるのだろうか?
今のヒカルとアキラは幸せの絶頂と言ってもよかった。
ヒカルは名人と、本因坊の二つの女流タイトルを保有し、女流だけでなく一般棋戦のリーグにも名を連ねはじめていた。アキラも初めてのタイトルとなる棋聖を取り、今は本因坊リーグを勝ち上がり、昨日挑戦者になったばかりであった。
そして2人は婚約者としても回りに周知もされお互いの両親からも認めてもらっていた。
あの約束をしてから10か月ほどの事だ。
『アキラならもっと早くタイトルを取ってもよかったはずなのに』
そう思いながら、自分だって今までそう簡単でなかったと思い直した。
これからだって簡単に行くまい。
だからこそいいのだろう。お互いライバルとしても恋人としても目指す意味がある。
ヒカルはシャワーを止めバスタオルに手を伸ばした。
そうして体を拭こうとして異変に気付いた。
太腿を白濁した液が伝っていた。
人差し指ですくい、ヒカルはそれが何であるか理解した瞬間体が沸騰したような気がした。
慌ててもう1度蛇口を捻り吹き溢すものを必死で洗い流した。
迂闊だった。昨夜アキラに確認しなかった。
けどそんな事は当たり前の事と思い込んでいたのだ。
風呂から上がるとヒカルは急いで服を着て、身支度を整える。
髪はまだ濡れていたが、怒鳴らないと気が済まなかった。
「ヒカル、朝食が出来てる」
優しい声がリビングからかかる。
鞄を取りに行くと風呂に入ってる間に用意してくれてたのだろう。テーブルにはサラダとハムエッグが並んでいた。あの短い時間
に。
一瞬躊躇いそうになったが、怒りの方が大きく
ヒカルは首を振った。
「アキラ、どうして昨日使わなかった?」
「何を・・?」
アキラが言葉を探す。
はっきり言わなかったのは『わかりきってるだろう』と思ったからだ。
なのに言葉を探そうとしたアキラにヒカルの怒りはますます募った。
「サイテーだ。今大事な時だってわかってるだろ」
「先週月のものだったから大丈夫だろうと」
「オレが生理不順なの知ってるだろう。特にこのごろは・・・」
言い掛けて、口をつぐんだ。
そうしてうんざりだと言わんばかりに鞄を取った。
そういう態度がアキラを傷つける事をヒカルは良く知っていた。
けれど、今はそんな事を構う余裕もないほど怒りの方が勝っていた。
「もうお前なんて知らねえし、会わねえ」
昨夜の甘い情交も今朝の余韻もすべて今の一言で吹き飛んだ。
「ヒカル、僕が悪かった。待って、」
アキラが腕を掴もうとしたが、それを払い玄関で靴先だけ履いて外に出た。
追って来るかもしれないアキラを振り切る為、エレベーターを待たず階段を駆け下りた。
外に出た瞬間、広がっていた青空に
傘を忘れた事を思いだしたが傘の1本くらいならと歩き出す。
駅までの道のり、鞄の中から携帯が何度か着信を告げる。無視を決め込んでいたが
鬱陶しく、電源を切ろうと取り出すと留守電が入る。
アキラからのメッセージ。そのまま削除しようとしたが『弁解ぐらいは聞いてもいい』と思いとどまり再生ボタンを押した。
『 ヒカル、ぼくの配慮が足りなかった。大切な君を傷つけた事反省してる。
それでも僕の我儘でも、君との子供が出きたらこれ以上嬉しいことはないと思ってる。
これからは君ともっと話し合って行きたい。
12日迎えに行く。愛してる 』
ヒカルは思わず足を止めた。
早口で言い募ったアキラの言葉には飾りはなかった。
基礎体温を測って欲しいとアキラに頼まれたことがあった。試みたものの出張や外出続きで結局1月と続かずだった。
アキラばかりのせいじゃない。
12日は式場探しに行く約束をしていた。その時にはヒカルもアキラを傷つけた事を謝れるだろうか?
ヒカルは握りしめた携帯を迷った末閉じた。
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