北斗杯が終わった数日後の大手合い。
それは北斗杯で感じた緊張感とは全く遠い緩やかな対局だった。
間が抜けたようなヒカルの手合いは、相手が新初段だったことも
手伝ってお昼時間前には中押し勝ちで対局が終わっていた。
喫煙室でタバコを吸っていた緒方は対局室から浮かぬ顔をして出てきた進藤に
つい声を掛けていた。
「進藤 もうすぐ打ちかけなのに長考か?」
驚いたように俺の顔を見た進藤は大きくため息をついた。
「先生違うよ。対局終えて出て来たところ。もう相手が早々と投了する
もんだから昼前に終わっちまって。」
進藤がふて腐れた様に言ったのはおそらく対局に満足してないためであろう。
吸いかけのタバコを灰皿に押し付けると緒方は好機を得た事を悟られぬよう
いつもの落ち着いた口調で話し掛けた。
「進藤これから予定はあるのか?」
「ないよ。対局日に予定なんていれないし・・」
「だったら俺に付き合え。」
上目遣いに俺を見つめる進藤には多少の戸惑いがあった。
「付き合うって碁?」
そんな進藤をついからかいたくなる。
「もちろんそれもいいが、これからデートなんてどうだ?」
「デート?」
進藤の声が高く裏返り戸惑い以上に俺を見つける瞳が不審なものを
見る表情にかわって俺は「冗談だ」と笑いとばしてやった。
「昼飯に付き合え。お前の好きなものをおごってやるよ。」
「えっ。いいの?」
「ああ。なんでも言ってみろ。」
「だったら 俺ラーメンがいい。」
そういった進藤の表情は先ほどとは打って変わってうれしそうに輝く。
その様子がラーメンを所望した彼がまだほんの子供なのだと
語っていた。
緒方は可笑しそうに口元だけで笑みを浮かべるといった。
「わかった。飛びきりうまいラーメンを食わせてやる。」
進藤の頬が緩む。
「やった。気前いいんだな。緒方先生って」
碁を打てば恐ろしいぐらい冴え渡り高段者さえ一目置く進藤も
囲碁を離れればただの15歳のガキである。
俺は携帯を手に馴染みのラーメン屋に電話を入れた。
進藤は俺に飛びつきそうな勢いでその電話の内容を
聞いている。
『ああ、おやじさん、緒方だ。ああ。二人分頼む・・・30分程かかる。」
マンション近くの行きつけのお店はお昼過ぎには店を閉める。
頑固なこの店の主は素材にこだわり1日限定100食ほどしかラーメン
を作らない。
ただし味はこの俺さえうならせるほどの絶品だが。
電話を切って歩きはじめると進藤はまるで尻尾を振った犬ころのよう
にうれしそうに俺の後をついてくる。
まだあどけないそんな進藤に確かに惹かれている俺がいる。
進藤とプライベートで碁を打ったのは今から1年程前のことだ。
恐ろしく切れのある手で追い込まれて、この俺が手玉に取られたのだ。
あの時俺は酔ってはいたがそれでも
進藤の冴え渡るような石運びを鮮明に覚えている。
それは今まで俺が進藤に抱いていたただの興味や好奇心が
別の感情に変わった瞬間だった。
それ以来俺にとって進藤はどうしようもなく気になる存在に変わった。
太陽のように明るく象徴的な前髪。屈託なく笑う笑顔も時折見せる
寂しげな大人びた横顔も。
何もかもが俺を魅了した。
その想いはおそらく恋に似ている。
そして・・・もう一人進藤にその想いを寄せているやつがいる。
塔矢 アキラ。
俺が今日進藤を誘い出したのは単なる気まぐれだけど、ただそれだけではない。
それは進藤から塔矢に対する気持ちを引き出す事。
俺は進藤に惹かれてはいるが仮に塔矢と進藤がお互い
惚れているならこの勝負は始めから降りる気でいた。
俺は大人だし恋愛経験も豊富だ。ガキ一人に振り回される
なんてまっぴらだとも思っている。
それだけ自分には余裕もあった。
塔矢と進藤を興味本位で傍観だってできると・・・
そんなことを考えながら歩いていると見上げるように俺を伺っていた進藤と
目が合った。
「どうかしたのか?」
「なんかさ、先生怖い顔してたから。怒ってんのかなって思って。」
「怒ってなんてないさ。俺はもともとこういう顔なんだ。」
「そっかな?先生男前なんだから普段からもっと笑ってればをいいのに。」
進藤の言う事に半ば呆れる。
「おれにそんな事を言う奴はお前ぐらいだろうな。まあとにかく車に乗れ。」
進藤を助手席に乗せると俺はこれからはじまる進藤とのデートに胸躍
らせた。
「ああ〜もう俺腹一杯!先生ありがとう。俺こんなうまいラーメン食ったのは
じめて。」
幸せな笑みを浮かべてそういった進藤に店の親父が笑いながら言った。
「坊主よかったな。電話かけてきた時、店閉めるとこだったんだぜ。
いつも世話んなってる緒方先生の頼みだったから聞いたけどな。」
「そうなの?」
進藤は二人しかいない店内を見まわしながら納得したようにいった。
「ああ。ここの親父は頑固で、しかも怠け者なんだ。だから1日100食しか
ラーメンを作らん。」
「それをいうなら店だって毎日開けるわけじゃねえ。気に入ったものが
入らない時は俺は店もあけねえ。」
ここの主は緒方が言ったことを否定する事もなく言ってのける。
進藤は身を乗り出して興奮気味にいった。
「じゃあさあ、俺も緒方先生の知りあいってことで今度から電話いれたら
置いといてくれる。」
そういった進藤の頭をおやじがぽんぽんと力強く叩く。
「調子のいい坊主だな。でもいいぜ、気に入った。
材料が残ってるうちだったらストックしといてやるよ。」
親父の言葉に進藤はガッツポーズを作る。
「よっしゃ〜!」
なかなか人付き合いが一筋縄ではいかないここの主が進藤を認めた事に
驚きながら俺は進藤の持つ何かに引き込まれていく自分を自覚
せざるを得なかった。
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