緒方とヒカルの勝敗はヒカルの負けで終わった。
わずか1目半及ばずだった。
連勝記録32のヒカルの成績は本因坊に続き、緒方十段との連敗で
終わった。
だが勝った緒方の方がヒカルよりも心身ともに疲れているように
周りからは見えた。
ヒカルは棋院を後にして一端立ち止まった。
この対局が終わればアキラの所に戻ると約束していた。
本当は飛んで行きたいほど心ではアキラを想ってる。
でも・・・。
煮えきれない思いのままヒカルは暗くなった空を見上げた。
父(本因坊)は今朝ヒカルがアキラの元に戻ると言った時
何も言わなかった。それがかえってヒカルは辛かった。
先日緒方に言われたこともチクリとこの胸の奥に残ってる。
そして曾爺ちゃんたちの墓の前であったアキラ・・・。
抱きしめられた感覚を思い出しヒカルは体が熱を帯びていく
ような気がした。
いろいろな想いが感情がヒカルの中で渦巻いていた。
「今日の対局きつかったな。」
つい口についた言葉にヒカルははっとした。
それほどきつかったわけではなかった。
ヒカルは今日の対局には負けたが手ごたえは残った。
次は必ず緒方に勝てる、そんな確信にも似たものが。
だのにきつかったのだ。アキラと離れていることが。
アキラが傍にいない日常が。
どんなに迷ってもヒカルはアキラへの想いを止めることなど
出来ないだろうと思う。
迷ってもアキラへと想いが戻るなら立ち止まっていても仕方がない。
ヒカルはそう思い直してゆっくりと歩き出した。
部屋からいいにおいがもれていた。
ヒカルがドアに手をかけると、ヒカルが開くより早く内側から扉が開いた。
「塔矢!?」
「おかえり、進藤、」
「ただいま、それより塔矢どうかしたのか?お前どっか出かけるトコだった?」
間の悪そうにアキラは顔をしかめていた。
「いや・・・君がそろそろ帰ってくるのではないかと思って・・・だから」
言葉を濁しながらしどろもどろになるアキラにヒカルは苦笑した。
「お前ってホント・・・。」
「なに?」
濁した言葉をアキラに聞き返されてヒカルは「なんでもねえ」っと笑った。
「気になるじゃないか。」
「いいだろ。もうそんなこといいから寒いし部屋の中はいろうぜ。塔矢、」
部屋の中から食欲のそそるにおいが玄関にまで漂っていた。
押し問答が続きそうなアキラを押しのけヒカルはさっさと部屋の
中に入った。
アキラも慌ててヒカルの後を追いかける。
ヒカルはリビングに入って足を止めた。
テーブルにはヒカルの好物が所狭しと並べられていたからだ。
しかもどれも今出来上がったばかりのなのだろうか湯気があがっていた。
「塔矢・・・。」
後ろから追ってきたアキラが立ち止まったヒカルをそっと抱き寄せる。
「あっ、」
驚いて小さな声を上げるとアキラが背後からもたれかかってきた。
頭一つ分の重み。
お互いの心細さがそこから流れていくようだった。
「ごめん、アキラ」
ヒカルが『塔矢からアキラへ』と呼び名を変えたのは恋人同士だけの空
間になったからだ。
アキラはそれに何もいわなかった。
ただヒカルを抱きしめた腕の力が強くなる。
ヒカルは弱音を吐くようにアキラにこぼした。
「オレ、緒方先生に負けちまった。」
「ああ。でもいい碁だったよ。芦原さんが対局終えたあとすぐ棋譜を
送ってくれたんだ。」
芦原は今日の棋譜係だった。
「そっか。」
ヒカルは乾いた笑いを浮かべた。
「緒方さん君と打って相当きつかったみたいだったって芦原さんが
言ってたよ。あの緒方さんがしばらく呆然としてたって。」
「負けた俺が言うのも変だけどかなり手ごたえあったんだぜ。
次はオレ絶対緒方先生に勝つぜ。」
「ああ、」
力強くそれに頷いたアキラはよくやくヒカルを抱きしめていた腕を解いた。
お互いに名残惜しさが広がっていく。
こんなに傍にいると言うのにだ。
「あのさ、オレ腹減ったんだけど。」
ヒカルがご馳走が並べられた食卓に目を移すとアキラが苦笑した。
「すまない。食事にしよう。」
「うん。」
アキラの作った料理をヒカルは一粒残らず平らげた。
「ああ〜腹いっぱい。塔矢サンキュな。すげえうまかったぜ。」
ヒカルがテーブルから立ち上がるとアキラがやんわり言った。
「いいよ。今日は僕が片づけをする。」
「でも、飯作ったのお前だし。」
「君は対局があったんだ。ゆっくりしたらいいよ。」
ヒカルはなんとも居心地悪そうに持ち上げた腰を下ろした。
2人で生活するようになって、ある程度の役割を分担して補う
ようにしていた。
生活習慣も全く違う2人が一緒に暮らし始めて
かみ合わないことも多くそのたびに喧嘩もしたし言い争いもした。
特にヒカルはルーズな事が多くて洗濯物や洗い物もままならず、
料理も出来合いのものや菓子などで済ませようとする傾向があった。
アキラはそういったヒカルの生活習慣がどうにも許せなかった。
洗物だってヒカルが当番の日はいつまでもほっとかれてしまい
結局はアキラが片付けてしまうことになる。
ほぼ全自動で動く世の中になってもだ。
それでもアキラはもう構わないとさえ思い始めていた。
ヒカルが飛び出していった後、一人でいることの寂しさ、心の虚無間
に襲われた。ヒカルと一緒にいることを知ってしまったアキラには耐え
られない寂しさだった。
もしこのままヒカルが戻ってこなかったら・・・。
脳裏を掠めた、どうしようもないアキラの不安はヒカルが帰ってこない
日々が長くなるにつれ大きくなっていった。
なぜ喧嘩などしてしまったのだろう。
自分が拘ったことが些細なことのような気がしてアキラの心はヒカルへの
想いだけでいっぱいになる。
後悔するのはいつも後になってからなのだ。