進藤の自転車を追いながら僕はこれから自分が
つく事になるだろう師匠のことを思い巡らせた。
進藤の祖父・・・進藤 剛名誉名人。
彼が碁界を去るきっかけとなったのは進藤 正夫(ヒカルの父)
との対局が直接の原因だったと言われているが本当の事は
彼自身語っていない。
当時名人 本因坊 と王座の3冠を制していた進藤 剛
に息子の正夫が本因坊の座をかけて挑戦したのは何年
前の事だろう。
10年以上も本因坊を防衛してきた剛にその当時飛ぶ鳥を落とす
勢いで駆け上がった正夫の対局は親子や師匠の関係を
超えて すさまじい対局となった。
お互い何もかも知り尽くした相手。
だからこそ譲らず、譲れず1歩も引かない対局は今でも名勝負としてよく
取り上げられている。
そしてその時の戦いを制したのはヒカルの父正夫で・・・
剛が対局後 正夫に残した言葉は碁界では
知らないものがいないほど有名だ。
「不肖だった息子が私の最大のライバルとなった事を誇りに
思う。」
その言葉を最後に碁界を退いた進藤 剛。
そして剛から奪った本因坊の名を正夫はそれ以来防衛している。
まさに進藤家が本因坊家といわれるにふさわしい逸話だ。
そんな進藤 剛名誉名人の弟子に本当になれるのなら
願ってもいないことだと思う。
前を走る進藤が自転車を止めた。
暗がりでよく見えなかったが外壁の向こうに校舎の
ような建物が二つ並んでいた。
「やっべ〜塔矢今何時かわかる?」
「10時前だけど。」
「そっか。消灯時間過ぎてんだな。しゃあねえ爺ちゃん家に電話してみっか。」
進藤が携帯を取り出すと軽やかに話し出す。
「じいちゃん。俺だけどさ、どうしても今から大事な話があるんだ。
悪いけど学園あけてくれない。ん〜頼む。それじゃあ。」
進藤の会話は相変わらず軽くて僕は緊張しそうになった気持ちが
少しほぐれた。
後ろ髪引かれる思いはある。父に対する後ろめたさも。
だが、僕は一人の棋士として父と対峙したい。
いずれ親という関係も師弟という関係も超えて・・・
「ヒカル来たのか。一緒にいるのは塔矢アキラ君だね。」
後ろから掛けられた声に僕と進藤は驚いて振り返った。
そこに佇んでいたのは進藤 剛名誉名人だった。
「塔矢アキラといいます。はじめまして。」
僕が頭を下げると彼は優しく微笑んだ。
「よく来たね。二人ともとにかく中に入りなさい。」
それはまるで二人を待っていたのではないかと思わせる言葉だった。
学園長室に通された僕はとにかくイスに座るように勧められた。
「失礼します。」
そう断りをいれてから腰を下ろすと進藤がせきを切ったように話し出した。
「爺ちゃん。あのさ、塔矢をここの寮生に推薦したいんだ。入れてやって
欲しい。出来れば今すぐに。」
「塔矢門下の彼を学園に?しかもプロなのにいまさら私の門下生になったとて
仕方がない事だろう。」
「そこを何とか頼むよ。塔矢さ、名人に破門にするって言われていく所
ないんだ。だからさ、爺ちゃん頼む。俺ここで何だってする。今まで以上に
仕事もがんばるし、給料もいらないから。」
進藤の言葉に僕は慌てた。
「進藤待って。これは僕のことなのにそんな事君にさせられない。
こんな夜分に来て迷惑も無理も承知でおねがいします。
僕の方こそここに置いて頂けるなら何だってします。どうかお願い
です。あなたの弟子にしてください。」
深々と頭を下げると隣にいた進藤がもう1度言葉をついた。
「爺ちゃん頼むよ。塔矢を置いてやって。」
二人から頭を下げられた剛はこの時すでにある程度の事情を把握
していた。
息子の正夫から二人がいくかもしれないと連絡があった事もあったが
それ以上に二人を見て思う所があったのだ。
そっくりなのだ。アキラはあの男に。
コン コン・・
学園長室をノックする音があって初老と言うには
申し訳ないほどに綺麗で上品な女性が立っていた。
「ばあちゃん。」
進藤の祖母だと知って僕は慌てて挨拶した。
「はじめまして。塔矢 アキラと言います。」
「こちらこそ、ヒカル今日はここに泊まるのでしょう。
着替えを持って来たから置いていくわね。」
物腰の優しい穏やかな感じの人だ。
「静江 今日からうちの寮生になる塔矢 アキラ君だ。
よろしく頼むよ。」
進藤と僕が一斉に声を上げた。
「それじゃあ ここに?」
お互いはもった言葉に見合わせると剛がわらった。
「孫に頭を下げられてはな。仕方がなかろう。」
本当はそんな事で承諾したわけではない。
この二人をほうって置くわけに行かないと剛は直感的に判断
したのだ。
「ありがとうございます。」
信じられない思いで頭を下げたアキラに剛が話しかけた。
「塔矢君 頭を上げなさい。ここでの生活はけっして楽じゃないよ。
それは院生もプロも一緒だから覚悟しなさい。塔矢門下生
だった君がどこまでやれるのかわからないが期待しているから。
今まで教えてくださったお父さんに恥じぬように精進しなさい。」
剛の重い言葉をかみ締めるようにアキラは頷いた。
お茶を入れてくれた進藤の祖母に軽く会釈をすると突然学園長
室の電話が鳴った。
取ろうとした静江を制すと剛は自らその電話を取った。
相手が誰だかわかっていたからだ。
「もしもし・・・正夫か。ヒカルなら来ている。代わろう。」
剛は電話を手渡すとヒカルは気まずそうにそれを受け取った。
「ばかもん。一体いつまでほっつき歩いてるんだ!」
親父に怒鳴られて連絡さえ入れていなかった事に気がついてヒカルは
謝った。
「ご ごめん。親父。すっかり忘れてて。でも爺ちゃんところにいるから
大丈夫だから。」
「アキラ君も一緒なんだな。」
俺は戸惑いがちに頷いた。
「実は さっき名人から電話があった。」
「ええ〜」
名人から・・・声に出しそうになった言葉を抑えた。塔矢が傍にいるからだ。
チラッと見た塔矢と目があって俺は悟られぬように口をつぐんだ。
「アキラくんが来てないかと聞かれたが知らないといってある。
ついでにうちのバカ息子も破門にすると言ったら飛び出していったきり
帰ってこないといっておいた。」
親父の言葉に俺は聞き間違いかと思って聞き返す。
「親父 破門って?」
塔矢が破門の言葉に反応して俺を見たが俺はもうそれすらかまえないほど
動揺していた。
「名人から話を聞いた。アキラくんだけ破門になってお前はならないなんて
不公平だろう。だからお前も破門にする事にした。」
「親父 それって。」
「つまりそういうことだ。お前もアキラくんも、じいちゃんの門下生になるんだ。さすがの
名人も名誉会長のじいちゃんには お父さんのように露骨な態度は
とらないだろう。
いいかヒカル今回の事はお父さんも知らなかったことにする。
すべておじいちゃんに任せるんだ。」
親父の言葉に俺は心底感謝する。
「ありがとな。親父」
「バカ もん。破門になって礼を言う奴があるか。」
耳元で怒鳴られて、それでも親父に感謝せずにはいられない。
「わかってるけど それでも俺が言いたいんだ。」
「父さんだって・・・悔しいんだ。親父は喜こぶだろうがな。
お前をずっと弟子にしたいと言っていたから。」
親父の寂しそうな声に俺はなんとも言えない気分になった。
俺は今更ながらに破門がどんなに辛いことなのか
わかったような気がした。
俺にとっては親父も爺ちゃんの弟子になるのも
かわらないような気がするけれど親父にとって俺は大事な弟子
だったんだ。
「うん。」
それ以上何もいえなくなって 置いた受話器に俺は塔矢に心配掛けないように
なるだけ明るく言った。
「俺も どうやら破門されたみたい。」
「し 進藤?」
案の定塔矢の顔が曇って、塔矢が何か言いかける前に
俺は爺ちゃんに向って言った。
「爺ちゃん 俺も爺ちゃんの門下生にしてよ。親父に破門にされたんだ。」
「そうか。とうとう正夫もお前を手放す気になったか。あいつはお前にべらぼうに
甘いからな。鍛えなおしてやるから覚悟するんだな。」
俺は苦笑する。親父と爺ちゃんは仲が良いのか悪いのかいつも
張り合ってる。
その中を取り持つのは俺とばあちゃんで結構それも大変
なのだ。でも 親父と爺ちゃんの間には俺と親父にはない信頼関係があって
本当はちょっと羨ましかったりもしている。お互い認め合った仲だから
言い合えるのだ。
「静江 悪いが席を外してくれないか。」
ばあちゃんは承知していたように席を立ち上がり部屋を退出した。
「二人に話しておきたい事がある。」
爺ちゃんはそう前置きしてから話し出した。
「お前たちのお父さんの仲がどうして悪いのか二人は知っているか?」
じいちゃんの言葉に俺はこくんと頷いたが塔矢はやはり知らなかったようで
驚いたように俺の顔を見た。
「君は知っているのか?」
塔矢に聞かれて俺はやむなく頷いた。
「塔矢君は知らないわけか。
君たちの事は正夫から聞いていてね。恋人どおしらしいな。」
俺は爺ちゃんの問いに躊躇したが塔矢は間髪いれずに
「はい」っと返事を返した。
「塔矢君 私の父と君の曽祖父がライバルだった事は知ってるね。
実はその二人も恋人どおしだったんだ。」
「僕の曽祖父とヒカルくんの曽祖父が恋人だったんですか?」
「そうだ。二人はずっと恋仲だったんだが、お互い結婚して
別の道を選んだ。いや選んだはずだったんだ。だけどお互い
忘れる事が出来なくて結婚してからも関係を続けてた。
ずっとな・・・・」
俺は塔矢が気になって覗き込んだ。
驚愕のあまり震える塔矢の手を俺は爺ちゃんの目も
気にせず握り締めた。
一呼吸置いた爺ちゃんに 塔矢はそれでも先を即した。
「それで・・・」
「君のお父さんは私の父を恨んでいた。
当たり前の事だと思う。家族の気持ちが
ばたばらになってしまったのだからね。息子の正夫は私の父に
よく似ていて・・・だから思い出すのだろう。」
搾り出すように塔矢が言った。
「僕には愛し合う人がいながら他の人と
結婚するなんてそんなこととても信じられない。」
「確かにその通りだ。二人は我侭で身勝手だったと私も思うよ。」
静かにそういったじいちゃんに俺はずっと疑問に思っていたことを
聞いた。
「なあ。爺ちゃん 爺ちゃんは自分の親父の事恨んでた?
家族の事を大事にしなかったんだろ?」
爺ちゃんは遠い目をしていた。
「私は父を恨んでなどいない。むしろ感謝している。
父の子として生まれてきてよかったと思ってるよ。
父に会えて碁を知り、正夫やヒカルにめぐり会えた。
それは全て繋がっているんだ。見えない絆という糸で。
何が正しくて間違っているかなんて本当は誰にもわからない。だから
二人でよく話し合いなさい。ただ好きだというだけでは
どうしようもない事だってある。これからここで勉強していく事は何も
囲碁のことだけではない。
二人ともいい機会だ。お互いを見つめなおすんだ。」
そこまで言うと爺ちゃんは立ち上がった。
「ヒカルと塔矢くんの部屋の鍵だ。
ヒカルは311 塔矢君はその隣の312号室だ。
明日の朝からはしっかりここの寮生としてやってもらう。
ヒカル 寮の規則や規律はお前から塔矢くんに説明するように。
今日は遅いから二人とももう寝なさい。」
退出する爺ちゃんに塔矢が立ち上がって頭を下げた。
「進藤名誉名人これからよろしくお願いします。」
「塔矢君 ここでは学園長と呼ぶように。ヒカルもな・・・」
「はい。」 |