塔矢のしようとした事すら理解できぬままに。
ヒカルはわけもわからぬまま旅館の廊下を直走った。
塔矢が追って来なかったことにほっとしたような寂しいような・・・。
ただ怖かった。
塔矢の行為と自分自身の感情にヒカル自身がついていけなかったのだ。
塔矢はいつだって優しかった。そりゃ碁の検討や意見の違いで
喧嘩した事は何度だってあったけど・・・。
二人で恋人として過ごす時は優しくて一番の理解者で誰よりも俺の味方だった。
なのに、なんで・・・
先ほど見た塔矢はまるで別人のようだった。
塔矢が俺を見つめる瞳はいつもの優しい瞳ではなかった。
荒々しい感情に任せたような激しい瞳。
そして、何よりも塔矢に触れられた自分の
体の変調が理解できなかった。
体中に電流を流したような感覚が押し寄せてきて、
危険だと言う事を自分自身に教えていた。
思い悩んでも頭の中は塔矢の事で一杯なのに、どうしていいかわからず
俺はその場に立ち竦むと後ろから聞きなれた声がした。
「やっぱり温泉は卓球だろう。」
「そっか?ゲームだと思うけどな。」
伊角と和谷の声・・・
「伊角さん 和谷!」
「よお〜進藤。どうしたんだ?ってお前なんてカッコしてんだ!」
俺は和谷に言われてはじめて自分の浴衣の着崩れに気がついた。
「うわ〜!!」
浴衣は腰紐一つでようやく留まっているような状態だった。
「しょうがないやつだな。どれ手伝ってやるよ。」
和谷が浴衣を直してくれる。
あちこち体を触れられても先ほど塔矢に感じたような
感覚は湧き上がらない。俺は安堵したような複雑な思いで和谷にきいた。
「なあ〜和谷と 伊角さんって今日同じ部屋?」
「そうだけど。」
「だったら頼みがあるんだけど・・・」
「どうした?」
「その・・・俺も今日同じ部屋に泊めてもらえない?」
「俺はいいけど・・・伊角さんは?」
伊角も構わないよと言ってくれて俺は安堵する。
「お前今日誰と相部屋だっけ?」
和谷のその質問に俺は言いにくくて口ごもった。
「塔矢だけど・・・」
「塔矢!?進藤喧嘩でもしたのか。」
「うん。ちょっと。」
いいにくそうにすると伊角が何か察してくれたらしい。
「珍しい事もあるんだな。だけど俺と和谷の部屋は3人部屋だ。
しかももう一人は越智だけど進藤大丈夫か?」
越智か・・・。越智は塔矢と俺と同じ年にプロになった同期だ。
だがどうも俺と塔矢に対して意識が強くて同期なのにあまり仲はよくない。
躊躇ったがそれでも今塔矢のいるあの部屋に戻るの事の方がそれ以上に
躊躇われた。
越智の嫌味の一つぐらいは覚悟した方がいいだろうなと思いながらも
俺はそれを了解した。
後ろ髪惹かれそうになりながらも和谷と伊角に付きそって3人で
部屋に入ると越智が俺の顔を見るなり表情を曇らせた。
「進藤?」
「おう越智 俺今晩邪魔させてもらうな。」
嫌味を言われる前に俺は先に自分からわけを説明する。
「俺 塔矢と喧嘩しちまって、ちょっと部屋に戻りにくいんだ。
だからさ、同期のよしみで頼む。」
俺は両手をぱちんと叩いて頼むのポーズを取ると越智が怪訝な表情で
聞いてきた。
「君が塔矢と喧嘩?」
聞き返されて俺はうっと返事に詰まる。
「ま まあな。」
「ふーん。いつも気持ち悪いぐらいべたべたしてるのに。
君たちもやっとお父さま方を見習った方が利口だとでも悟ったか?」
さすがに越智の台詞にヒカルは切れそうになる。
「なっ。俺と塔矢は親父たちとは違うぜ!」
和谷が二人の喧嘩に参戦してくる。
「そうだ。越智お前謝れ!だいたい進藤個人にならまだしも先生
に対する暴言なら俺だってゆるさねえからな。」
和谷は親父の門下生ではないが じいちゃんの弟子だった森下先生の
の門下生で、そういう意味では同じ同門かもしれない。
越智は俺と和谷を前にして ふんっと 冷ややかな視線を投げる。
「本当のことだろう。塔矢先生ははっきりと進藤門下と付き合うな
と公言している。
それを息子の塔矢本人が破るなんて示しがつかないだろう。」
確かにそれで塔矢は嫌な思いをしているかもしれないと
思ったことはあった。だが、いつだって塔矢はそんなことは微塵と見せず
に俺と付き合ってくれていた。俺を庇ってくれていた。
「塔矢はそんな奴じゃねえ。誰がどこの門下であろうとなかろうと分け隔て
なんてしないよ。喧嘩の原因はその、碁の事でちょっと意見が合わなかっ
ただけだ。」
俺は俺自身に言い聞かせるように言った。
ちょっと行き違いがあっただけなのだと。
そう そしていつものようにすぐ元の関係に戻れると。
だが、この胸によぎる嫌な感じはなんだろう。
不意に塔矢に会いたいと思う。会って今すぐ確かめたい。
俺への気持ちを・・・。
だが先ほどの事を忘れたわけでなく戻る事もできず俺は自分の
言った事にすがりつく。
ちょっと行き違いがあっただけ・・・・
それまで3人の様子を見ていた伊角が俺の肩を叩く。
「進藤 俺も門下なんて関係ないと思う。塔矢も進藤も
俺は友達だしライバルだから付き合う。そんなことに門下も何も
関係ないだろう。」
伊角の言葉に励まされる。そうだよ。その通りだよ。だけど塔矢の
さっきのあれは一体なんだったのかわからない。
「もう 俺たちも寝たほうがいいな。明日も仕事だし。
越智も和谷も喧嘩なら盤上でやってくれよ。俺たちは棋士
なんだし。もちろん進藤もな。」
なんとか伊角の言葉にその場の険悪な空気はおさまって俺は布団に
逃げるようにもぐりこんだ。
布団に入ってからもずっと塔矢のことが気になって俺は寝る事が
出来なかった。
とにかく朝になったら部屋に戻ってちゃんと塔矢と話をしよう。
俺はそう心に決めるとようやく眠りについたのは朝も近い時間だった。
「進藤 進藤。」
伊角さんと和谷に声を掛けられて起きたの時には7時を回っていた。
俺は慌てて布団を跳ねのけた。
「やばい!!」
6時には起きて部屋に戻ろうと思っていたのに。
俺はとりあえず3人に礼だけ言うと足早に部屋へと急いだ。
塔矢になんて言おう。なんて話そう。
昨日からぐるぐる回る頭を抱えながらも、お互い話せば何とかなると
自分自身に言い聞かせた。
だが、部屋のノブを捻って俺は唖然とする。
鍵がかかっていたからだ。塔矢まだ寝ているのだろうか?部屋の
前で戸惑っていると丁度隣の部屋からから出てきた先輩棋士の冴木
が俺に声を掛けて来た。
「よかった。進藤くん戻って来てくれて。塔矢くんから鍵を預かって
たんだ。」
俺は冴木さんから鍵を受け取るとおずおずと聞いた。
「あの 塔矢は?」
「何か調子が悪いとかで今日は早退させてもらうって。
1時間ぐらい前かな迎えがきて自宅に帰ったようだよ。」
「えっ!」
塔矢が調子を悪くして早退?
俺は慌てて部屋に入るとそこには俺の荷物だけがぽつんと
置かれていた。
なんで・・・塔矢・・?!
塔矢とすれ違った気持ちが重たくて・・・・
その日の仕事がとにかく俺にとって最悪な状態となってしまった事は
いうまでもなかった。 |