「議論」


「議論」

 「議論」は英語では”discussion”と訳される。国語辞典では「それぞれの意見や考えを述べながら論じ合うこと」と説明されている。また、”discussion”は、英和辞典では、「…についての論議、討議、評議あるいは審議など」と訳されているケースが多い。一方、”dialogue(dialog)”は、di(2つの)とlog(話す)の意味を含み、「対話とか意見交換あるいは会談など」に訳されているらしい。おそらく、”discussion””dialogue”よりも意見をお互いに戦わせるという意味が強いのであろう。

 また、いつものように、「最近の…若者は…だ」ということを書くことになるのだが、やはり「企業においても最近の若手の部下は議論をすることや議論に参加することが苦手というか、論理的に反論してこない者が多いような気がしてならない」と感じるのは私だけなのであろうか。

 先日、大学時代の同期の仲間で会合(忘年会)をする機会があったが、ある国立大学の理科系の教授になった同輩から、
「最近では、4年生になっても、卒業論文の指導で学生を教育する際に、ちょっと厳しく言うと次の日に彼の親が大学まで電話をかけてきて困ります。」というようなことを聞いた。さらに、その教授自身も、「このような言い方で指導をすると親から何か言ってくるかも知れない」と予知感覚を持つらしい。私がその指導の内容を聞いたところ、「このままでは卒論は厳しいからこうしなさい。」と言う内容なので、私の経験からいえば至極当たり前の指導と思うが、何やらそれらの課題を自分自身で切り返して乗り切ることを積極的にできないのか、あるいはしないようである。こうしたことは、おそらく日常茶飯事では無いと思われるが(思いたくないが)、特にこの大学に限ったことではないような気がするのは私の考え過ぎなのだろうか。

 思い出せば、私自身も大学院修士課程の頃には、非常に厳しい助教授の下でセミナーを受講しており、論文や文献を読んだ説明会でも何人もの学生がやり直しを食らっていた。「その引用文献は具体的に何を書いているのか」、「何を言いたいのか」、あるいは「君の研究との直接の関係は何か」など、助教授は対象論文の単なる説明だけを許さず、それを自分の研究と対比させながら解釈することを要求した。そのために、文献だけでなく引用文献も参照して自分の研究と対比しながら、先輩や助手の先生とも事前にセミナーの傾向と対策を行い、皆が万全の体制で議論に望んだものである。それだけ、名物助教授のゼミには緊張感があった(セミナー後には適度な達成感もあった)。

 その貴重な経験が今の私の研究の基本姿勢になっていることは疑う余地が無いと思う。やり方や程度の違いこそあれ、このようなやり方そのものが現在でもそのまま適用されるとは思われないが(多分受け入れにくいだろう)、いわゆる
「骨太人材」の育成方法の1つであったことは間違いない。助教授はその後大学を移られ教授となったが、今は故人となってしまったことが非常に残念である。

 私自身は、現在の企業に入社してから最近まで何人かの若手を直接指導する機会を得たが、やはりなんとなく物足りなさも感じている(これはある意味で私自身の器の狭さもあるかもしれないが)。やはり、企業では1つのことに集中できないこともあり、充分に若手を育成する時間が無い(ただし、ある程度は若手自身での自立も必要)が、投げたボールは出来る限り構えたグローブに向かって投げ返すような元気さ(逞しさ)を持って欲しいと何時も感じている。それは、技術者としての論理的な反論(あるいは議論)であり、自身に向けられた議論に対して精一杯の努力の結果だと思っている。できないときには
素直に「できない」とか「わからない」と言い、それを踏み台として次の指導を受ける。こうしたことも「骨太人材」育成のための重要な過程であろうと考える。

 
科学技術は、基本的には定理や原理や理論に基づいた基礎的な技術の上に築かれたものである。したがって、一見、無秩序と思われる中にも必ず何らかの規則性や適用事例はあると信じている(少なくとも我々が扱う最先端の技術においても同様である)。だから、現時点で、30歳以上も離れている若手にも、今後も強い熱意を持って科学技術の指導をして行きたいと思っている。

 *本文は、著者が現役時代(2016年頃)に執筆した原稿に加筆修正を行った文章です。

 2022年11月13日

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