「志を抱き大義を持つ」ことの大切さ」 |
「志を抱き大義を持つ」ことの大切さ」 今回は、仕事や研究の直接の目標や目的だけでなく、さらに人生設計を含めた計画や思い(志)を持つことの大切さを書いてみたいと思います。前半部分には、ある韓国の時代劇で知った歴史的な流れをちょっと書きますがご容赦ください。 そのドラマは「大王の夢」です。新羅第29代王の太宗武烈王(テジョンムヨルァン)となる金春秋(キムチュンチュ)の一生とその家臣で最高の武将と称えられた金?信(キムユシン)の物語です。この物語は、歴史ドラマなので脚色もあるかとも思いますが、言いたいことが詰まっていたので、耳を傾けて頂ければ幸いです。 時代は7世紀の初頭です。日本(倭国)では、丁度、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を倒した「大化の改新」の頃です(645年)。ドラマでは、金春秋が倭国に渡り皇極天皇に拝謁し、また大化の改新の場面に直接に出くわすなど、見る者を飽きさせないものがあります。 当時の朝鮮半島では、百済と新羅と高句麗の三韓が天下統一のための覇権争いをしておりました。その中で、新羅の金春秋は、「三韓統一」の大きな志(大義)を持って、百済と高句麗に対峙したと言われております。当時の新羅は、善徳(ソンドク)女王が統治しており、金春秋は金?信と共に百済や高句麗と戦い、また戦略的な交渉したりしていたようです。その後、真徳(チンドク)女王から第29代の新羅王となった武烈王は、金?信を将軍に任命し、百済と高句麗に対して唐との連合で対峙します(羅唐連合)。 高句麗では、第28代の宝蔵王(ポジャンワン)と宰相・将軍の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が唐からの攻撃を何度も撃退していました。百済では、第31代の義慈王(ウイジャワン)は、階伯(ケべク)を将軍として、新羅と唐の連合軍を5000の軍を率いて戦い、論山・ 黄山伐で5万人の新羅軍を迎え討ちますが階伯は戦死します。百済は、660年に、義慈王が羅唐連合軍に降伏し、678年続いた王朝は滅びました。その後、百済復興軍は、倭国と連合して白村江で羅唐連合軍と戦いますが、大敗します(白村江の戦い)。 百済滅亡後は、高句麗では、淵蓋蘇文の病死によって後継者争いが起こり、国力が低下します。羅唐連合軍は、高句麗に対して度重なる攻撃を行い、宝蔵王のからの降伏を受け、668年に高句麗を滅ぼします。こうして、武烈王から王位を継承した第30代の文武王(ムンムワン)の時代に新羅が朝鮮半島を統一します。 私は、こうした三韓の物語の流れを見て、本当に、「大志」とか「大義」持つことの意義を感じました。皆さんはどのように感じられましたでしょうか。新羅は、武烈王が最後まで「三韓統一」の大義を持って戦ったとのことですが、百済の義慈王はその末期には政治をすることなく衰退してしまいました。また、高句麗の宝蔵王も内乱によって結果的には国を滅ぼします。熱き大志(大義)、あるいは夢でも良いかもしれないですが、が如何にして熱き心で周囲の者を動かすのか、改めて感じさせられるドラマだったと思います。 さて、今の自分自身に戻ってみて、5年先の自分はどのようになっているだろうか?また、10年先の自分は何をしているのだろうか?という感じで、常に問いかけながら、何を目指すのか、何に進むのか、などを、是非、一度考えてみてみたいものです。 *本文は、著者が現役時代に執筆した原稿に基づいた文章です。 2022年6月6日 |
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