「耳学問と現場現実主義」


 「耳学問と現場現実主義」

 今から30年以上前だったと思うが、大学院の修士課程から博士課程への進学において、先生方の前で修士論文の内容を発表して博士課程の進学試験を受ける機会があった。当時の私は、最新の分析装置(電子線マイクロプローブEPMA:Electron Micro-Probe Analyzer)を使って多くの組成データを出していたので、発表そのものには不安は無かったが、まとめと考察の内容に対して更なる深みを付けるために、指導教官の教授が大学院の博士課程の試験の直前に論文に記載した内容も併記して発表した。結果的には、発表自体は問題なく、また質疑応答に対してもまあまあ無難にできたので自分自身では安心してしまって、意気揚々と試験後に教授の研究室に挨拶に行った。教授からの「試験はどうだったのか?」と言う問いかけに対しては、「何とか無事にできました。」とか回答したように思う。

 しかし、その直後に、今までに無いように列火の如く怒られた(尋常でなく)。その理由は、教授が論文に掲載した考察の内容も確認しないで発表したことにあった。実際に、その発表とは、当時の常識で100-120MY前(MYは百万年)と一般的に言われていた対象の地層の地質年代に対して、ある放射年代(Rb-Sr法)の測定法では180MY前であったという内容であり、私はこの情報をそのまま引用したことにあった。この60-80MYの差は、当時の年代測定の同定法では説明が必要な大きな差であり、それなりに理屈に合った注釈が必要であった。もちろん、教授からは、「180MY前という年代測定の結果は、ある特定の放射性元素の年代測定の結果であり、そのような条件も加味して考察すべきであった。」と言われた。

 そうしたことや発表時の些細なことも含めて、
「君は本当に理解していたのかね!」と、また雷(多分、電光柱という太い雷)のような衝撃を食らったことを今でも鮮明に覚えている。さらに、教授は、「君の発表は、事実と耳学問とが混同していて、それが君の発表の質を大きく下げている。」というようなことも言われた。今から思い出しても、確かにその通りであり、あの時、教授自身で質問をしてわざわざ修正を入れなかったのは、幸いにしても他の教授からの質問が無かったためであり、結果的には、みじめな状態を回避させるためであったのかと、後になってひしひしと感じた。そんなことで、それ以降は、現場現実主義というか、自分の出したデータや結果を主体として、文献情報は孫引きも含めて必ず裏を取ることを意識するようになった。

 「綾小路きみまろ」の漫談ではないが、あれから早くも30年が経過した。今では、世間でも名前が通った大学から若手が入社してくる企業組織の技術的にも上位の立場となり、当時の教授と同様に、技術報告書の査読や技術的な講演会でも質問や指導をする立場となった。もちろん、これらの若手技術者は、ペーパテストの得点も高いし、記憶力も高いし、また、それ以上にプライドも高い。

 こんな中で、当時のことを思い出して、今の若手や中堅の技術者の様々な行動と比較することも多々ある。
「君の発表は何に基づいてそう言い切れるのか?」とか、「本当に文献に書いてあった?」などと教授と同じようなことを言っている自分に気づくことが多々ある。

 そして、やはり、彼らが、
「耳学問」で自分の仕事の説明をしていることを感じることが多々ある。また、発表している彼らの表情を見ていると、何とかこの場を逃れようとし、さらに、本当の目的もわからずに話しているケースもあるように感じる。多分、こうしたこともある意味の「耳学問」から派生する悪い点であろうと思っている。

 今の自分の目標は、若手や中堅の技術者をなんとか一人前(外部からも認められる)の技術者として成長させることである。偉そうに言うならば、今の私は、丁度、親が子供を育てるときの「大変さ」というものを感じているのかも知れない。多分、これは、恩師である教授の悩みと同じようなものなのであろう。

 
教えることは、やはり教わることよりもはるかに難しい。しかし、骨太技術者を育成することは、私を指導した教授も、そして教授を指導した先生も、全ての技術の先輩たちが求めている重要な課題でもあると思われる。やはり、私も、教授のように本音で自分の正しい信念を持って、これから成長するだろう若手技術者を教育していかねばならないのであろう。どんな厳しい場面においても、技術の発展だけでなく人間の成長に対しては、教育と育成が重要と思っている。

 *本文は、著者が現役時代に執筆した原稿に基づいた文章です。

 2022年2月19日


「三波川変性帯の熱史」
坂野昇平・酒井千尋・大槻正行 地学雑誌、93-7、1984。
 左図は地学雑誌の論文原文であり著者の国際誌への投稿原稿(未投稿の原稿)である。三波川変性帯は、海洋底堆積物が海溝に沈込み、中生代の白亜紀に地下深部で10kb以上の圧力の高圧広域変成作用を受けて変成岩となった。その後、プレートの上昇に伴って横臥褶曲が形成され、四国中央部で標高の高い部分に高変性度の変成岩が分布した。これらの地殻変動を、泥質変成岩に含まれるザクロ石の累帯構造と組成変化で、相解析によって熱力学的に立証して広域変成作用のモデルを構築した。これら一連の調査でのEPMA分析の点数は数千点以上に及ぶ。
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