「ラクダを針の穴に通す」 | ||||
新約聖書の一書にマタイ福音書があります。この中の第19章の24節には、イエスキリストが言われた以下のような言葉が記載されております。 「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」 おそらく、当時の中東では最大の動物であったであろうラクダが針の穴を通り抜けるということは不可能なことで、また、あってはならないことを表現したものと思いますが、私はなかなか比喩が面白いと感じました。同じような表現は、マルコ福音書の第10章25節、あるいはルカ福音書の第18章25節にも書かれているようです。本当は、前後の節も含めて紹介しないといけないのですが、ここでは核心の部分のみを紹介しました。 私は、キリスト教徒ではなく、また聖書にも詳しくないので、これ以上のことは解りませんが、当時としては、とても不可能なことを比喩するための言葉であったようですね。 さて、聖書の文言は置いておき、私たちが行う色々な行動(仕事や作業など)に対しては、本当に「不可能だ」ということは多いような気がします。そもそも、針の穴には質量的にも体積的にも穴径よりも大きなものは通すことはできないはずです(そう言えば、私も、60歳を超えると老眼も急激に進むためか、針の穴に糸を通すことも簡単ではなくなりました)。 では、そのような時にはどうすれば良いのか?最新型のミシンのように、自動糸通しの機能のあるのを用いれば糸は簡単に通せますが、それでもやはりラクダは通せませんね。 しかし、ここで、少し皆さんの発想を変えてみましょう。どんなことをしてもブラックホールに飲み込まれたラクダ以外は針の穴よりも大きな物体そのものを通過させることはできませんが、ラクダ尾像を通過させて何がいるかを見ることは可能なのではないでしょうか。つまり、針の穴をピンホールとして使って、ピンホールカメラのようにラクダの映像を反対側の壁に結像させることは可能だと思うのです。実際に針孔で試してはいないですが、紙に直径1mm程度の穴を開けたものをスリットとして用いれば、像が見られることは付録の工作でも皆さんも既に体験しているのではないでしょうか。 そうそう、発想の転換が必要ですね。 こうしたことは、針の穴に限ったことではないですね。我々の日常の色々な現象や行動の中にもこうした発想の転換で、「目から鱗」といった画期的なことが起こることがしばしばあります。そう言えば、この言葉も新約聖書の中の話の1つでしたね(The scales fall from one's eyes:キリスト教を迫害していたサウロの目が見えなくなったとき、教徒アナニヤがサウロの上に手を置くと、サウロは目が見えるようになり、このときサウロは「目から鱗のようなものが落ちた」と言った)。 何か、聖書が書かれた頃の聖職者の考え方は、もしかしたら今よりもとっても革新的だったのかも知れませんね。 「発想を変える」、あるいは「異常な現象を逆手に取る」。こうしたことが何かの成功のきっかけになると思います。特許出願、発明や発見、そして新たな閃き、などはこうした流れから生まれてくるのでしょう。そう言えば、ドアも、「引いて駄目なら押してみる」とかも、同じ発想の転換かも知れません。 そのためには、日頃からよく現象や事象を観ておくことが大切ですね。また、原理原則を理解した中で、こうしたやり方だけで良いのか?他に何かできることはあるか?と考えを巡らせることも必要なのかも知れません」。 2021年10月4日
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