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A 小学校入学後、病名が確定する直前まで(6歳〜9歳5ヶ月)

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まあくんの状態

 小学校では、入学時から養護学級所属にさせてもらい、普通の学級で受ける授業では、養護担当の先生に付き添ってもらうなど、授業内容をフォローしてもらうことにした。しかし、先生方の努力や工夫にも限界があり、家庭での徹底した復習が欠かせない状態で、母親が算数と国語の面倒を見ていた。

 目玉を上に向ける事が多かったし、足元の障害物をうまく避けていたので、おそらく見える範囲が下の部分しかないのではないかと私(父)は思っていた。当時たまたま仕事の関係で日本ライトハウスの方と話す機会があって、子どもの状態を相談すると、「それはおそらく視野が欠損してるんでしょう。下のほうだけ視野が残っているんじゃないですか」と云われ、そうかもしれないと思うようになった。心因性の視覚障害と診断されていたので、小学校入学後も月に一回、市民病院の小児科へカウンセリングに通っていた。風邪をひいて救急で診察してもらったとき、心因性の視力障害がある旨を伝えると、まるで虐待されているかもしれないというような目で身体中を調べ、たまたま転んだときにできていた小さな腕の痣までカルテに書き込む医師もいた。
 視力以外は異常がなかったので、通学は子どもたちだけの集団登校だった。近所の上級生がよく面倒を見てくれた。
 一年半ほどカウンセリングに通ったが、(当然のことながら)変化は見られず、いずれ治るだろうと二年生の半ばに通院をやめてしまった。

 三年生の半ば頃、「ほら見て、膝が勝手に震えるねん」と椅子に座ってかかとを上げると片足がガタガタと揺れるのを面白がって何度も見せてくれていた。今から思えば、これも神経がダメージを受けていたからだと思う。

 9歳になったころ(2003年1月ごろ)、コップを持つ手が震えることに気づいた。どうもおかしい。もう一度、最初から調べなおしてもらおうと、2月に別の大学病院に紹介状なしで診察を受けに行った。月に一度か二度の通院を重ね、基本的なデータを取り直し、検査入院できたのが5月30日だった(6月6日に退院)。あらゆる原因を追及していきましょう、ということで、心因性の疑いも無くしきれていなかったので、母親はまったく付き添いなしとし、夜も一人で過ごさせ、医師の立場から様子を客観的に見てもらうことにした。

 退院直前に、主治医の先生に呼ばれた。「病気の原因が判りましたよ!」口調や様子が、難問が解決したような、若干興奮気味だったのを覚えている(そんなつもりはなかったと思うが、見つけたことが、うれしそうに見えた。不快感は無かったが、ちょっと気になった。でも、この先生がいなければ、確定診断はもっと遅かったと思う)。まったく思いもよらない、重い話だった。脳のMRIの画像を一緒に見ながら、視神経の部分がダメージを受けて変性しているところがあることや、手足が不随意に震えるときがあること、歩き方、視力の低下などの症状も、典型的な症例にほぼ一致することにも触れられ、白質ジストロフィーのいくつかの病気のうち、ALDの可能性がある、といわれた。神経が壊れていく進行性の病気で、いずれは歩けなくなり、進行の度合いによっては、早く命を落とすこともあるという。入院中にMRIは2回撮ったのだが、1回目では判らなかった。2回目で判ったなど、やっと見つけたというようすで話されていたが、信じられなかった。あまりにも唐突だった。別の大学病院を紹介され、そこの専門の先生の名前を書いたメモを渡された。「そこへ出している検査の結果で病名がわかるだろう」ということまで聞いても、何かの間違いだろうという気持ちが大きかった。「ALDねっとわーく」や「ロイコジストロフィーネットワーク」とタイトルのあるインターネットのサイトの資料を何枚かもらった。電話で妻に聞いたことを話した。とても複雑な気持ちだった。家に帰ると、妻は泣き腫らした顔で、「もうまあくんの目は元には治れへんの?」とハンカチで口元をおさえながら、嗚咽した。
 妻の涙はそのとき以来見たことがない。
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