そばの歴史 蕎麦切り舟 次へ サイトへ
淀川の蕎麦切舟

 この話は、大阪・北浜のそば屋「手打ちそば三十石」でそばを食べたとき、箸袋が三十石文庫Aとなっていて、そこで紹介されていた話なので浪速にあったそばの歴史の一端だと思って書きとどめて置いた。


 その昔、淀川は京・大阪間の重要な水路で、多くの人や荷物の輸送に
三十石船が活躍していた頃の話だ。
その三十石船の乗船客に飲食物などを商うために漕ぎ寄せる小舟を「くらわんか舟」とか「荷売舟」「貨食舟」などと言い、様々なものが売られた中の変わり種として「蕎麦切舟」があり、乗船客にうどんやそば切りを売り回ったという記録が元禄十六年(1703)刊の「立身大福帳」に書かれているという。それによると、伏見の豪商天王寺屋長右衛門の先祖で越後浪人只右衛門が小舟で淀川の夜船へうどん・そば切りを売り始めたとあり、越後騒動で浪人した人物なので天和・貞享(1681〜89)の頃の話しだという。
これが箸袋に書かれたあらましであるが、さらに当時の蕎麦切り舟が使っていたというそば鉢の写真も載せている。小さい写真であり判じがたいが陶器の世界で言う「くらわんか皿」の一種であろうか。

下手物(げてもの)」という言葉がある。「高価な精巧な品」に対する反対語として使われ、ときに下手物趣味などといって奇妙なものを好む場合の表現に使われたりする。
しかし元々は、陶器など骨董の世界から出た言葉であって、上等な美術工芸品などを「上手(じょうて)」「上手物」と言うのに対して「下手」「下手の物」は、本来は素朴で力強い美しさを持った、かつて日常使われていた簡素であっても捨てがたい趣を持った雑器などをさす言葉なのである。この下手の代表格に古伊万里の「くらわんか」の皿や茶碗がある。
多くはくらわんか舟で使われた酒食を盛った雑器のことで使い捨てであったとする説と、食べ終わった茶碗や皿の数で代金を数えたので、客はそれを川に投げ入れ、勘定をごまかしたとする説がある。いずれにしても、その皿や茶碗が今も淀川の川底から出てきて、世に「くらわんか茶碗」とか「くらわんか皿」といわれている。
古伊万里のほかに、地元高槻の古曽部で焼かれた古曽部焼も多く、さらに遠くは、長崎県の波佐見や愛媛県の砥部で焼かれたものもあるという。

 「三十石船とくらわんか舟」のことについては、落語のなかにも「三十石」または「三十石夢の通い路」というのがあって、京見物をして「寺田屋の浜から三十石の夜船に乗る・・・船頭の舟唄につれて川を下り・・・やがて枚方あたりで夜が明けてくらわんか舟が物売りに来る・・・」など、伏見から枚方へと下って行く様子が描写されている。
名所図絵本として安永9年(1780)に初めて刊行された「都名所図会」のなかの「淀の水車:みずぐるま」に、淀川を上る三十石船と貨食舟が描かれているし、滝沢馬琴や十返舎一九も淀川の賑やかなこの光景を書きとどめている。
  三十石船は、早船三十石とも呼ばれ京都・伏見から大阪・天満橋詰八軒屋までの約十里を昼夜二回の運行で、下りがおおよそ六時間・上り十時間とほぼ一日とか一晩の行程だった。
下りは流れに順行するが、上りは船頭が岸へ上がって太綱で船を引っ張るから時間も倍、運賃も高く、船頭にもつらい仕事で「下り大名 上り乞食」とさえいわれていたそうだ。
 淀川の船運の歴史は平安の頃からといわれ、その淀川水運も最盛期・享保年間(1716〜36)には、三十石船だけで671隻と記録されているし、他の淀二十石船や伏見船(十五石)などを含め、淀川や木津川を行き交う船の数は現在では想像の出来ない状態だったようだ。
 また、「くらわんか舟」については、大坂の役で徳川家康側に功績があって、その恩賞に淀川筋の食い物売りの独占権と川舟旗を与えられていたと伝えられていて、それを威光に船客に不作法な商いをし、三十石船に鉤(かぎ)を掛けて固定し「食らわんか よう食らわんか」「銭がないから よう食らわんか」と口汚くどなって酒食を売りつけたことでも有名だ。
その後、明治四年頃に川蒸気船・同じく十年には陸蒸気(おかじょうき)へと時代が移った。

 なお、枚方は船番所があったところで、現在は京阪・枚方市駅陸橋側の壁に安藤広重の描いた「三十石船とくらわんか舟」のレリーフが掛かっているし、さらに01年7月3日には、天正年間(1573〜92)に淀川沿いに創業した船宿「鍵屋」について、江戸時代の宿場情緒を再現する歴史資料館「市立枚方宿鍵屋資料館」を開館、ほぼ当時のままの「主屋」や、船着き場の跡、くらわんか舟の模型、当時の「くらわんか茶わん」など往時を偲ぶことができるようになった。