そばの歴史   <  サイトへ

 京都の蕎麦 京都のそば屋  

 そばの文化やそばの歴史を語ろうとすると本来、京都の蕎麦や京都のそば屋のことを外すわけにはいかない。
 京都には、古都ならではの菓子職に始まる本格の老舗そば屋があるが、全国のそば屋の品書きにもなっている「にしんそば」発祥の店も京都の老舗そば屋である。他に、町場のそば屋や今風のこだわりのそば屋は勿論のこと、伝統の熱盛りそば専門のそば屋から出雲そばや戸隠そばといった郷土そば屋にいたるまで実に多くのそば屋がある。
ここでは、かつて都であった京都ならではの蕎麦について取り上げてみた。

本家尾張屋の紙袋から拝借

広い延し板で、そば生地を麺棒一本で座って「丸延し」している。軒の釣り看板に「そば切 切むぎ」とあるが、これは近世初期の麺類屋の看板:招牌(ショウハイ)で、絵馬型の板にひらひらした切り裂きをつけている。火を焚くかまど(へっつい)の図もあり、簡略化された線画だが貴重な資料である。(京・車屋町二条・「本家尾張屋」の紙袋に載っているそば打ちの図から)

都ならではの特徴 
 わが国の麺文化発祥の地は京都で、それは7世紀から鎌倉時代にかけて遣唐使や留学僧らがもたらした素麺に至るまでの技法を寺院が採り入れて、宮中や公家とともにこれを普及させた。
それは、寺院や貴族社会の行事食や伝統的な食生活にも適合して普及したのであるが、その後、京都に伝わったそば切りもまたよく似た生い立ちを持っている。

 一般的には、うどんやそば切りは地域や庶民生活に根ざした麺文化という側面を持っている。 おそらく信州で誕生したと考えられるそば切りは、伝統と文化の中心であった京の都や、都市造営の途上であった大坂や江戸に伝わるとともに、並行しながら各地へも伝わりそれぞれの郷土のそば文化を育てたと考えられる。
 江戸の場合は、新しい町づくりで各地から集まってきた江戸の人々に受け入れられて江戸流ともいわれるそば文化を定着させ、まさに江戸・町人の好んだ食文化の一角を担う。

 他方、江戸以外の地域では、それぞれが受け継いだそば切りの手法を守りながらその土地ならではの個性ある郷土のそば文化を形成し伝えている。
例えば、岩手の「わんこそば」であり、山形の「板そば」、福島・檜枝岐の「裁ちそば」、新潟の「へぎそば」、福井の「越前そば」、兵庫・出石の「皿そば」、島根・出雲の「割子そば」、徳島の「祖谷そば」、それと、そば先進地域の源である長野の信州そばからは「高遠そば」「戸隠そば」「富倉そば」などで、これらには互いに共通項を持ちながらもそれぞれの独自性を貫いている。
 京都の特性 寺院や宮中・公家社会の儀式や行事に使われて発達したなかに「菓子」があり、京菓子」を作る菓子職が古くから京都に発達する。
都の菓子職は常に良質の米粉やそば粉を使い、粉の扱いに熟達した技術を持つ環境のところに、そば切りが伝わると菓子の注文とともにそば切りの依頼も生じて、他の地域のそば切りとは異なる発展過程を辿るきっかけになった。
 京都では、「その昔、菓子屋には寺院から蕎麦(切り)の依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの技量によって菓子屋の評価が左右された。」という。これは、京都の老舗そば処「晦庵河道屋」で河道屋15代主人から実際に聞いた話である。またこの店の寺院との関係の例では、比叡山延暦寺は5月17日に桓武天皇御講をおこなうが、河道屋の当主が毎年登山して手打ちそばを献供することになっているという。河道屋は享保年間(1716〜35)創業の菓子職「総本家河道屋」で、「蕎麦ほうる」の元祖である。
 京菓子とそば屋を営む京都の老舗「本家尾張屋」は創業五百四十余年の「菓子司」で、江戸時代に「御用蕎麦司」をつとめている。
この場合の御用蕎麦司は、(京都)御所に手打ちのそばを届け、ときにはそばをつくりに伺うという、いわゆる宮内庁御用達のそば打ちをつとめたことになる。
この店の栞に書かれた内容を受け売りさせてもらうと、『寛正6年(1465)に菓子司として創業し、いつの頃からかそば処としても京の町衆に親しまれるようになった。その後、そばが有名になって、由緒ある寺院や宮家からの注文がふえていった。本願寺からは「五色そば」の注文があったり、宮中にそばをつくりに行くこともしばしばであった。』とある。
 京都には他にも老舗のそば屋があるが、それらに共通するのはいずれも「白いそば」であり、いかにも上品に仕上げたそばが身上であるといえる。
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