二八そば・語源の謎   < サイトへ

「二八そば」真の語源
     ---「仮説」---
 

 結論から言うと、「二八そば」という言葉は「二八」または「仁八」という名前の人が自分の売り出すそばに付けた名目であった。いうまでもなくこの時代は、そばもうどんも同じ扱いで、値段も同じだからそばの名目としての「二八」はうどんにも共通する。
その彼はそば切りの名手であり、打ったそばは当時の評判になって「にはちの蕎麦」、「二八そば」として「二八」がひとつの言葉・呼称として確立していったのであろう。
このように人の名前が出発点であったことから「そばやうどんのキャッチフレーズや代名詞」として変化していっても人々はなんの不自然も感じず、いささかの解説も必要とせずに過ぎていった。
そして、固有名詞から発した一代限りの名目のために、時代とともに「二八」という呼称が出現したいきさつなどは人々から忘れ去られてしまう。 ここまでが、永く謎につつまれていた「二八そば」または「二八」という言葉が出現した当初の真の語源である。
 ところが後世、「二八そば」の語源を考えるにあたって、江戸時代の多くのそば屋が「二八」を名乗り、江戸のそばを代表するそばのような思い込みがあったのと、「二八という数の謎解き」をしなければならないとの意識が先に立ってしまって結論の出ない迷路にはまり込んだままで現在に至っているのである。

 以上のような背景があって「二八」の語源は忘れ去られるが、二八そばの当時の繁昌振りにあやかろうと「二八そば」を名目(キャッチフレーズ)にするそば屋が現れ、江戸市中に増えだして「二六」や「三四」までが登場するようになる。このようにして「二八うどん」や「二六にうめん」も登場する。
かくして江戸のそば屋はこぞって二八そばの名目や看板をあげることになったために、かえって後世「二八の原点」がわからなくなってしまったのである。

 寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」巻之上「江戸中蕎麦切屋の名目の事」のなかに当時のそば屋とそれぞれの店の名目を挙げている。「名目」とは、他の店のそばと差別化するために付けるキャッチフレーズのようなもので、同書から一例をあげると「大名けんどん」「芳野蕎麦」「玉垣そば」「朝日蕎麦」「雪巻蕎麦」「さらしな蕎麦」「ざる蕎麦」・・・などがある。
それらの中に「一等次なる物には、二八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠二六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添え遣す。」(・・・大根の千切りを添えてだす。)という一文があって、この時代の「二八」「二六そば」の様子の一端を書き残している。
この文章でみる限り、「一等次なる・・}からは、たいした名目も付けずに其処此処にある「二八」や「二六」を名目にしたままのありきたりのそば屋という程度の位置づけであろうか。
「二八そば」の初見とされるのは享保13年(1728)頃だから、すでに出現当初の輝きがなくなって、単に「二八」や「二六」を名乗るそば屋だけが増えてしまった様子がうかがえる。

 あいまって、そば切りやうどんの値段も物価変動に伴って、十二文、さらに十六文へと移っていく。
ちょうど寛政から文化・文政の頃でありここでふたたび「二八」という言葉が第二期として脚光を浴びることになる。すなわち、今度は掛け算の九々の二八として「数の遊び文化」にも合致しておおいに流行する。従って、十六文の出現のあたりからが現在よく知られている第二期の語源説として再登場するのであるが、この十六文は幕末近くまで約70年ほど続くので、正確にいうとニハチ・十六文価格説があてはまるのはこの期間だけということになる。

 その後、幕末・維新の物価高騰によって蕎麦やうどんも慶応(1865)年間に入ると一気に二十四文を経て五十文、明治で五厘から始まり三銭、大正・昭和で十銭辺りまで、昭和20年に戦争が終わり、29年に「銭」が廃止されて20円のそばやうどんが25円に値上げされている。
当然のこととしてニハチ・十六文価格は幕末、維新で根拠を失い、やがてそば粉八割(つなぎ・小麦粉二割)という意味の第三期の配合割合に移行していく。
 従って「二八(そば)」には、出現期に真の語源があって、その後、そばの値段が十六文になって実勢価格にたいする言葉の洒落と数の遊びという江戸文化の第二期に入る。そして幕末の価格高騰以降はそばの品質、差別化につながる配合割合の第三期に移行して現在に至っているのである。

 「二八そば」の「二八」は当時としてはありふれた「二八」 または 「仁八」という人の名前で、そばの名目(キャッチフレーズ)として付けたのが「二八そば」であった。
                             「二八そば・語源の謎」 完


 余談ではあるが、二八そばの出現も、そば屋の屋号庵号が流行り出すきっかけも同じ江戸中期にある。浅草・寺町の浄土宗・称往院の院内にあった道光庵の庵主は信州松本出身のそば打ち名手で、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという実例がある。
寛延4年(1751)に書かれた蕎麦全書では道光庵は既にそばで有名であったが、当時のそば屋の店名は普通の屋号ばかりで庵を名乗るそば屋はなく、「庵」は僧坊や草庵に付く名称であった。
やがて道光庵は親寺の称往院によって天明六年(1786年)に蕎麦禁断となってしまうが、その後、道光庵の評判と繁昌振りにあやかろうとそば屋の店名に庵をつける現象があらわれて、○○庵というそば屋があちことに出現する。「二八」を名乗るそば屋が増えた現象と通じる。
 「二八そば」は人の名前から始まった言葉であり、そば屋に付く「庵」は道光庵という小寺に付いた僧坊を意味する言葉であった。どちらも「そば」が大いに評判となり繁盛した。その二つが後世までもそば屋の共通語になっている背景は「そばの評判振りと繁昌振り」にあやかりたいということに発しているのである。


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