二八そば・語源の謎  < 次へ < サイトへ

 江戸時代のそばの値段  

 ここに掲載した通貨は「寛永通宝」という江戸時代の銭貨で、当初はずっと一文銭だけであったが途中から四文銭も加えられ、そばやうどんなど少額の代金はすべてこれらのお世話になっていた。



  

 江戸時代のお金(通貨)は金貨と銀貨そして銭貨の三種類であった。このうち金貨と銀貨は、「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」などといわれ、「武士(江戸)の金貨と商人(上方)の銀貨」として、使われる貨幣が東と西で異なるという不思議な通貨制度であった。
これらに対し日常の食べ物や日用雑貨など、庶民の少額の用途には銭貨が使われ、ほぼすべては寛永通宝といって寛永13年(1636年)から幕末以降まで流通している。
当初からの値は一文銭であったが、その後、明和5年(1768)になってすこし大型で裏に波模様のある四文銭が鋳造されるようになって登場する。
 江戸では、享保のなかば(1728頃)に「二八そば」が出現したとされていて、大坂に目を転じると享保15年頃(1731)の絵草紙で大坂の砂場・いづみやの置き看板に、「壱せん・そば切・八文」とあって、そば切が八文だという値段が書かれている。
そば用語にもなっている「二八」:「二八そば」について、そのように呼ばれるようになったいきさつや背景、なにを意味するのかなど、それぞれ説はあるものの、ここで確認しておかなければならないのは「二八」が現れたとされる頃までのそばやうどんの値段は、江戸も上方も六〜八文くらいであった。




一文銭4枚と四文銭の写真。 余計な話ではあるが、そばを台にした古典落語の「時そば」では一文銭を支払うことで成り立っているのだが、そばの値段が十二文から十六文になった頃に四文銭が流通し出しているので実際には、一文銭を十数枚かぞえて払うよりも、四文銭を3枚とか4枚、または四文銭に一文銭を交えた少ない枚数で払われていたのだろう。

 その後しばらくして十二文〜十四文が現れ、時には十六文も散見されだすが定着までは至らない。このような時期の明和5年(1768)に四文銭が出現する。やがて、十六文が定着するのは寛政(1790年代)あたりから文化・文政・天保(1804〜44)にかけてだと考えられている。
こうしてみると初めの頃の六〜八文時代が長く、また後半の十六文という相場も幕末の少し前まで続いたのでどちらも約7・80年間続いたことになる。

 文政十三年(1830)に書かれた喜多村信節の風俗の百科事典「嬉遊笑覧」に「享保半頃、神田辺りにて二八即座けんとんといふ看板を出す・・・ 二八そばといふことこの時はじめなるべし」とあって、これが「二八」と「けんとん(けんどん)」という言葉の出現時期とされている。
さらに、「けんどん」もまた、その意味やなにをもって語源となったのかが分からなくて大いに議論となった言葉である。いまでは慳貪と書いて不愛想などのことであるとか、けんどん箱など岡持(出前用の箱)のことであるとか、とりあえずは「つっけんどん」という言葉の始まりであろうと言うことになっている。

 そばの種類も当初は「もり」と「かけ」であったが、さらに具を乗せる「種もの」へとだんだん品数が多くなっていく。「守貞漫稿」という幕末頃の風俗誌によると、そば屋の品書きではそばもうどんも16文、天ぷら32文などいろいろと品数が増えてそれに応じた値段が出現する。下の品書きは上が京坂のもので、下は江戸の例としてあげられている。

   京阪の蕎麦屋の品書き

     江戸の蕎麦屋の品書き

 上下の品書きを見比べて気が付くのは、同じ十六文(拾六文)であっても京坂ではうどんが、江戸ではそばが先に書かれている。上方と江戸の相違点でもある。

 さらにもう一つ、切り口を変えてみると面白いことに気付く。
四文銭が登場したあたりからのそばの値段は12文に始まって申し合せたように16文がベースになっている。さらに、守貞漫稿の上方と江戸の品書きに目をやると、そばやうどんの値段は基本形の16文であり、具を乗せた種物(加薬)では、あられ・しっぽく・花まきなどは24文、天ぷら・玉子とじなど32文、(鴨や親子)南蛮・小田巻は36文、上酒(一合)40文、御前大蒸籠48文、などとなっていてどの品も4の倍数である。
すなわち四文銭の倍数ばかりであり、あたかも当時の一文銭と四文銭の使われ様を後世に書きとどめてくれているようにさえ思える。
 もっとも、すべてが4の倍数であった訳ではないので、次に挙げた大阪の例の、あんかけ18文やおだ巻きむし38文には四文銭のほかにそれぞれ一文銭を二枚加えられていたことはいうまでもない。
 大阪・堺市にある小谷城郷土館の小谷方明氏が、「大阪の民具・民俗志 文化出版局」でこの時代の大阪にあったそば屋の行燈(看板)を紹介していて、一面には「生蕎麦」、もう一面は「麺類処」とある。
張札(値札)では、うどんもそばも共に16文、あんかけ18文、かちん24文、おだ巻きむし38文などとある。おだ巻きの麺はうどんだが、あんかけや餅の入ったかちんはうどんでもそばでも注文できたのであろう。どちらの資料にも小田巻き蒸しがあるのはいかにも大阪らしい。

 以上のように、江戸時代のそばやうどんの値段を見ると、6文〜8文の時代があって、12文(や14文)、16文の時代へと緩やかな推移であったが、幕末・維新の物価高騰によってそばやうどんも例外でなく、慶応(1865)になると一気に24文になり、さらに明治で五厘(五十文)から始まり、大正・昭和には厘・銭になるとともに戦後の円へと移り変わって行った。

 先に見た、大阪のそば屋の行燈(看板)の一面には「生蕎麦」、もう一面は「麺類処」とあったが、江戸時代の半ばまでは、「そば屋」と称するようなそば切りだけを商う店はなかった。麺類を商う店は、「うどん・(うんどん)」と「そば」をおなじ店で扱っていて、「麺類処」はうどんやそばの他にもにゅうめんなどを商っていることを強調するための店側のキャッチフレーズにもなったと考えられる。
行灯看板の片側に「そば切り」その反対側は「うどん(うんどん)」としたり、片側を「生蕎麦」とし、他方に「麺類処」と書いた行灯もあった。
 麺類の先輩格は素麺で、古くから貴族社会から庶民に至るまでひろく好まれ、七夕行事や贈答用に使われたり、川柳にも多くとりあげられているので、当然のこととして麺類処にも素麺を置いていたことが考えられるのであるが、どの文献にも「素麺」についての値段などはみあたらない。
 【庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし・成松佐恵子著:ミネルブァ書房】のなかで、当時、美濃国(岐阜県)庄屋西松家が書き残した日記があって、素麺(一把)は 享保(1716〜)13.3文、嘉永・安政(1850頃)美濃・江戸共に50文となっている。これに比べて当時のそばの相場は享保6文〜8文 嘉永・安政16文である。
 素麺は乾麺でありそばの販売形態とは異なるのと、素麺の当時の一把がどの程度かはわからないが、仮に一把を一人前程度とすると、素麺は高価で少なくともうどんやそばの2〜3倍に相当し、この間の値上がり幅も片方は約2倍であったが、素麺は3.7倍にもなっていることになる。

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