そばの歴史・そばの文化  <  サイトへ
 江戸そばの源流  
 江戸の時代には、それぞれ数え切れないほどのそば屋があって、いまも老舗といわれるそば屋は多い。しかし、江戸そばの老舗で代々続いている「のれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと「砂場」である。そして、この御三家のなかで最古参となると、ほんとうは「砂場」だということはあまり知られていない。

 「砂場」の発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いづみや」というそば屋で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」であったので通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになったのである。
 寛政十年(1798)刊行された「摂津名所図会」という当時の名所や寺社・旧跡などを紹介した絵入りの名所図会があって、その大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図がある。
そのそば屋の暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。二枚目には店内の様子も描かれていて、そばを食べる客をはじめそばを打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人々と、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などからとてつもない規模であったことが窺える。
まさしく往時の名物そば屋といったところだ。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って十年ほどの後に姿を消した。

  摂津名所図会と 「砂場いづみや」の図

摂津名所図会

   「摂津名所図会」(写本)
 大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に
 「砂場いづみやの図」がある

 たいそう繁盛している砂場いづみやの店内風景


砂場いづみやの店内風景 その右側

砂場いづみやの店内風景 その左側


 寛延4年(1751)の「蕎麦全書」巻之下の「江戸中蕎麦切屋名寄附名目」の中で江戸の薬研堀に「大和屋 大阪砂場そば」が登場しているし、安永8年(1779)刊・「大抵御覧」のなかに、三又の中洲(現在の日本橋中洲)に「砂場そば」の名が出ている。この他にも、天明年間(1781〜1789)刊の江戸見物道知辺」のなかに「浅草黒舟町砂場蕎麦」の名前は登場している。
江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、浪速と江戸の双方で平行して「砂場」が繁盛していた時期があったのである。
江戸時代からでは、江戸の麹町砂場が南千住の方に移って「砂場本家」を名乗り、久保町砂場は移転の後に天保十年(1839)巴町砂場を名乗って現在に至っている。
昭和8年に砂場長栄会が結成され同じ30年に「砂場会」と改称している。「すなば物語」坂田孝造著が発刊された昭和59年頃の会員店舗数は182と記されている。

 もう一角の「薮蕎麦」についてみると、「薮」という名称の興りそのものは江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くのやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」で当初は「薮の内」とも言われたそうだが、名物であったので一時期藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れている。
江戸・本郷団子坂にあった「蔦屋」もやはり竹藪のなかにあったが、そこの連雀町店を引き継いだのが今の神田・薮蕎麦の堀田七兵衛初代である。
その以前は蔵前で「中砂」という店をやっていて、北池袋にある西念寺の墓石には「大阪屋七兵衛」とあってもともとは砂場系出身だったという。
これらの話は、かつて、並木・薮蕎麦(七兵衛初代の三男が初代)の次男で池の端・薮蕎麦の堀田主人が対談などで話しておられるので確かだ。したがって、「砂場」に端を発する大坂のそば切りが現在の江戸そばの形成に少なからず影響を与え、その発展に貢献したと言っても過言ではない。

 もうひとつ、老舗の暖簾を誇っているのは「更科」である。
もとは、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。寛政2年(1790)になって麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」の看板を揚げたのに始まり、信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。
現在は「総本家更科堀井」「永坂更科布屋多兵衛」「麻布永坂更科本店」の屋号が有名である。

 それでは、大阪についてこれら「のれん御三家」をみると、大阪が発祥の「砂場」は東京を中心に関東の各地から北海道まで「砂場」を名乗る店がみられるものの、大阪をはじめ周辺での暖簾や屋号はみあたらない。
薮蕎麦も全国に「やぶ」を名乗る店が多いのであるが、最近やっと、神田薮蕎麦で修行したという店が大阪・北区に「やぶそば」として出店した程度である。
特徴的なのは、大阪には「更科」を名乗るそば屋が多い。新世界・通天閣本通りの「総本家更科」は明治40年の創業というから浪速のそば屋としては老舗であるが、東京の「更科」とは異なる庶民的な雰囲気とイメージが強く、大阪の「更科」各店に総じて共通する大衆・庶民的イメージであると思われる。

 かつて「砂場」があった新町は立売堀と西長堀の間にあり、江戸時代には東西に「大門」があってたいそう繁盛した遊里で、西鶴や近松の浮世草子や世話浄瑠璃の舞台としても有名である。
「砂場いづみやの図」が描かれた「摂津名所図会」(写本)を手渡して見せてくれたのは、大阪・西天満で昭和24年開業のそば処「衣笠」の三代目主人である。 さらに、もう一つ面白い物があると言ったのが、白地に「す奈バ」と書かれた三個のいかにも古そうなそば猪口三個であった。
現在のそば猪口よりも二回りは小さいそば猪口で、「いまよりも辛いつゆだったんでしょう」とは三代目の話だ。
 よく比較されるのが「薮のつゆ」「更科のつゆ」それに「砂場のつゆ」である。一般的な表現をすると「薮の辛つゆ」「更科の甘いつゆ」「砂場はその中間」などともいわれる。
勿論この場合の辛い・甘いは、塩分や糖分の問題ではないし単純に味の濃い・薄いでもないから説明はむつかしい。
そばつゆの嗜好そのものの変化もさることながら、この小振りのそば猪口に注いだ当時の「砂場のつゆ」に想いを巡らしてみるのも興味深いものがある。またはひょっとして、少し時代が下って一度にたくさん運ぶ出前の効率化のためにあえて小振りに誂えさせたと想像してみるのはとんだ見当違いなのだろうか。

 江戸時代の「そば猪口」は、大半が伊万里焼で、時代の古さによって姿・形が変化し絵柄や図柄も多彩であり、器の大小や大振り・小振りなどおびただしい数が今に残されている。
幕末から明治期になると各地で磁器が作られるようになって、大量生産ができてどれも似通った色や形のそば猪口ばかりになってしまった。

 ちなみに古いそば猪口の大小をおおよそで見てみると
口径は6センチ弱〜10センチ強、高さも5センチ強〜7センチなど。
小さめのそば猪口よりももうすこし小振りになるとぐい呑みで、口径・高さそれぞれが5〜6センチ前後くらいなのでちょうど三本の指に収まりやすい頃合いになっている。

 かつて大阪の「砂場」があったといわれるあたりは、いまは新町南公園になっていて、さほど古くはないが石碑が二つ建っている。いずれもなにわ筋に面し、北隅には明治21年(1888)自由党の壮士・角藤定憲が「大日本壮士改良演劇会」を旗揚げして、新派発祥となった「新演劇発祥の地」の碑が植え込みの茂みの中に埋もれている。
もう一方の南隅には砂場跡の石碑がある。
いささか大仰の感はあるが「本邦麺類店発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場」とあって碑文には、『天正十一年(1583)九月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ、通称「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いずみや、津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。坂田孝造・識』とあって、昭和六十年「大阪のそば店誕生四百年を祝う会」が建立している。

    「ここに砂場ありき」の石碑 

   「大阪のそば店誕生四百年を祝う会」が建立  すなば物語


 坂田孝造氏は新聞記者で、そばに関する歴史資料や文献を研究され、「大阪のそば四00年 すなば物語」を昭和59年に、小冊子「そば瓦版
」を毎年春秋二回発行するなど大阪在住の市井のそば研究家である。

 また、余談になるがこの遊里では、近松門左衛門の歌舞伎に登場する遊女・夕霧太夫の物語が有名である。
新町や砂場との関係はないが、浪花にゆかりの夕霧太夫の名前にちなんだ柚子切りの「夕霧そば」を出す店が北区曽根崎・お初天神横手にあって、ひと時代前の落ち着きを感じさせる昭和の前半創業のそば屋「瓢亭」がある。

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