居合の歴史
居合の始祖
林崎甚助重信
居合は剣術、弓術、槍術と同じく武士が修める武術である。鉄砲が伝来する前年、天文11年(1542)浅野
数馬重治の嫡子として羽州村山郷楯岡在林崎村(現山形県村山市大字林崎)で生まれる。幼名を民冶丸。5歳の
時、父が暗殺され8歳より武術修行を始める。弘治2年(1556)林崎明神より抜刀の神伝を授かる。4年後
元服して林崎流と称し、名も林崎甚助重信と改め父の敵討ちの旅に立ち、永禄4年(1561)京で仇討ちを成
し遂げ帰郷する。その後、廻国修行をしながら多くの弟子を育てるが、没地、没年は不明。
参照1)浅野数馬の暗殺 民冶丸の修行 居合神社
居合の発展
多くの流派が誕生
田宮流居合之始に「始林崎重信夢想の霊剣を尾州田宮平兵衛業正(重正)に相伝、即ち田宮流となつく。其の後
平兵衛奥州米澤長野無楽斎桂露(無楽流)に相伝、然るに桂露居合剣術の名を得て国々を広廻し諸流を抜き出す。
是より諸流わかれて今にその流儀有り」とある。主なものは一宮左太夫照信(一宮流)、関口弥六右畔門氏心
(関口流)、片山伯耆守久安(伯耆流)である。現在、伝承される古流派はこれらから分派されたものであるが、
明治維新後、消失した流派は数え切れないほどである。
参照2)主流派と近江
全日本剣道連盟制定居合
全国共通の術技
昭和44年全剣連は居合道発展のため主な流派を基にして七本の型を制定した。その後、二度の改正で現在の座
位4本、立位8本計12本となった。大半の型は歴史ある古流派からその基本が採られた。例えば、一本目「前」
は大森流の「初発刀」、3本目は無双直伝英信流や大森流の「流刀」、5本目は伯耆流の「磯波」、12本目
は無外流の「玉光」からなどであるが、7本目の三方切りは制定委員による独自の型として採り入れられた。
しかしながら細部の動きからしてみると全ての型は独自の型ともいえる。
参照3)制定居合
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