 府民の森ひよし
森林倶楽部
その他の事
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藤田徹
1 原始時代から中世まで
(1) 原始時代〜弥生時代初期
日本では約30万年前の原始時代の遺跡から木炭らしきものが見つかっているほか、縄文時代の遺跡からたくさん
の木炭が見つかっています。これらの木炭は、炭窯を使わず、積み上げた木に土を被せて火をつける、伏せ焼き、
という方法で作られていたと考えられています。伏せ焼きは簡単に炭を得られるので、現在に至るまで使用され続
けています。
(2)弥生時代中期〜奈良時代
3000~4,000年前、国内でも鉄を作るようになると、製鉄のためにたくさんの木炭が必要になり、一度に大量の 木炭を作れる炭窯が使われはじめました。当時の遺跡から見つかる炭窯は現在のものとは異なり、細長く、側面に
炭を掻き出す穴が何個もありましたが、前方に焚きロ、後方に煙道という基本構造は現在のものと同じでした。
(3)平安時代〜桃山時代
平安時代に、大陸から、現在の製炭技術の原型となる白炭を焼く技術が伝来し、京都でも、洛北で白炭が作られ ました。この白炭を焼く技術は、弘法大師が持ち帰ったものだと言い伝えられています。
鎌倉時代に入ると、黒炭を焼く技術も発達しました。室町時代には、茶道の発達と共に、茶道用木炭の製炭技術 が確立し、桃山時代には大阪にも茶道用木炭の産地ができました。この木炭は池田で販売されたため、池田炭と呼 ばれ、京都でもよく使われました。
2 近世から近代まで
(1)江戸時代
都市部における一般燃料として木炭が大量に消費されるようになったことから、都市周辺、及び船での輸送に便 利な地方に主産地がてき、京都においては洛北の鞍馬、大原を中心に産地が発達すると共に、和歌山や四国産のも のか淀川を通って伏見に集まるようになりました。当時の炭窯には様々な種類かあり、佐倉窯等、現在の炭窯に近 い窯の他、四角い窯や細長い窯もありました。石窯も少数ありましたが、大部分は土窯でした。
(2)明治時代
木炭は都市部以外でも燃料として広く一般に使われるようになり、生産量も拡大しました。
明治の中頃、きのこ栽培の指導者でもあった田中長嶺は、全国の炭の産地を調査し、製炭法を手引き書にまとめ ると共に、学校を建てて指導者を養成しました。また、それまで伝統的に使われていた炭窯を改良し、現在使われ ている土窯の直接のルーツとなる標準的な黒炭窯「菊炭窯」をつくりました。
菊炭窯以降、炭窯の改良が積極的に行われるようになり、様々な炭窯か作られました。これらの炭窯はそれまで の窯と区別して「改良窯」と呼ばれています。
(3)大正時代
木炭を焼く技術は飛躍的に進歩し、炭窯についても、焚き口を上部につけるかわりに炭化室との間に障壁を設け る等の改良が行われました。「大正窯」、「大竹窯」などの炭窯が各地で開発され、産地の拡大や品質の向上も進 みました。このとき活躍したのが、田中の養成した指導者やその弟子達だったといわれています。また、鉄道の発 達により、それまでの船での輸送に便利な地方だけでなく、鉄道による輸送が便利な地方にも産地が形成されるよ うになりました。京都府では山陰線(現在のJR嵯峨野線)を中心とする地方に主産地ができ、南丹地域にも大きな産 地が形成されました。大正中頃には京都府の木炭生産量は約2万トン台に達していましたが、これでも生産不足で、 3万トン以上を鹿児島県等から購入していました。
3 昭和から平成へ
(1)昭和前半(製炭産業最盛期)
昭和初期、東京大学の三浦伊八郎博士が全国の炭窯を調査し、各部が平均的な大きさの三浦標準窯を作りました。 また、木炭ができる過程の解明が進み、これを元に新型の炭窯「農林一号」が作られました。精錬用通気孔(精錬 管)を付ける等、黒炭の精錬技術も向上し、白炭との差が縮まりました。
京都府では、昭和7年から、木炭の品質向上と流通改善を図るため、府営検査が実施されるようになり、昭和25 年には、この検査は強制検査になりました。
当時の京都府産の木炭は他府県産に較べて品質の悪い物が多く、これを改善することも府営検査が導人された大 きな目的の一つだったようです。
京都府の木炭生産量は、昭和10年代に3万トン台に達したあと、第二次世界大戦の影響で1万トン台まで減少しま したが、戦後の復興期に入って再び増加しました。使用されていた炭窯は大正窯が最も多かったとされますが、他 にも色々な種類の窯が使われており、松炭用に煙道が2~3本もある大型の窯もあったということです。昭和24年の 木炭生産量は約2万トン台前半にとどまり、46都道府県中33位(1位は岩手県)でしたか、それでも3千基を超す黒炭 窯と700基近い白炭窯が産業用に稼働しており製炭業は同じく燃料であった薪の生産と共に、山村を支える重要な 産業でした。
(2)昭和後半(燃料革命)
昭和30年代に始まった燃料革命により、燃料は徐々にガスに移行し、木炭の需要は減り始めました。生産者も触 媒を用いた収炭率の向上等の技術改善や、共同製炭による生産過程の合理化等でコストダウンを図り、これに抗し ましたが、需要の減少には歯止めかかからず、昭和35年には、生産量の減少に伴い、主産地を除き府営検査は廃止 になりました。さらに、昭和43年には全面廃止となり、以降、品質の維持などは自主検査に頼ることになりました。 当時を知る人によると、最初に白炭が駄目になり、ついで黒炭が衰えていったそうです。薪の生産も衰え、山村の 主力産業であった薪炭生産の衰退は、受け皿を失った労働人口の都市部への流失等、様々な影響をもたらしました。
しかし、そのような状況にあっても、京都府は茶道用木炭の堅調な需要かあったこともあり、品質の良いものを 作れば、また需要はある、木炭は将来のある林産物だ、という考え方が続いていました。昭和45年における府の木 炭生産量は約1千トンで、ピーク時の1/30以下に減少していましたが、300トン程度の木炭が府外から購入されてお り、需要拡大の余地が残っていました。そこで京都府では製炭技術の維持のために、船井郡瑞穂町鎌谷(現在の京丹 波町鎌谷)に技術保存用の炭窯を作成すると共にその作成過程等を資料としてまとめ、技術の保存を図ることになり ました。この保存窯自体は、今は所在不明となっていますが、このとき作られた資料はひよし窯を作る際の基礎に なりました。
(3)昭和末〜平成
昭和50年代には、木炭は茶道用や料理用等に僅かに需要を残すのみとなり、京都府の木炭生産量も100トン前後 に落ち込みました。そこで、昭和50年代中頃から、木炭やその副産物である木酢液の新しい用途の開拓が進むよう になりました。昭和61年には木炭は土壌改良材として政令指定を受け、調湿材、水質浄化、電磁波遮断等の新用途 開拓も進みました。また木炭より空隙の多い竹炭やその副産物である竹酢液も注目を集めるようになりました。新 用途の開拓により、木炭の需要は僅かながら増加し始め、新しい炭窯の築窯も行われましたが、輸入品や工業的な 生産との競合も厳しくなっており、少ない需要を開拓して行くため、生産・販売に工夫を凝らさねばならない時代 になっていました。
(4)現在
京都府においても、平成4年頃を境として木炭生産量は僅かながら増加しはじめ、最低77トンまで落ち込んでい た生産量も近年は150トン前後まで回復しました。
また、都市住民に自然志向カ昿がり、里山の荒廃が社会的に注目されるようになると、かつて里山の維持に大き な役割を果たしていた製炭業にも、再度注目が集まるようになりました。
NPO団体が活動の一環として炭窯を作成したり、小学校などて炭焼きの体験学習が行われたりもするようになり ました。こうした場で活躍するようになったのが、ドラム缶窯や移動式炭窯をはじめとする簡易炭窯です。できる 炭の品質は本格的な炭窯に劣るものの、制作が容易で、製炭に要する時間も短いこれらの炭窯は環境教育等の環境 保全活動に活躍するようになりました。
そうした中、南丹森のエコミュージアムが発足し、その最初の活動として、かつて南丹地域の山村の代表的な産 業であった製炭業を支えた、伝統的な土窯を再現することになりました。
(ふじた・とおる/京都府南丹広域振興局農林商工部 農林整備室王任)
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