正式の名称は(宇治採茶使)です。寛永10年(1663年)に幕府年中行事の一つに加えられ、幕末の慶応2年(1866年)に至るまで毎年続けられました。
将軍自身が喫飲する(御物)のお茶を、毎年夏を迎えた頃に宇治から江戸へと運ぶこの行列の格式は非常に高く、お茶壺道中に行きあえば、諸国大名ですら道を譲らねばなりませんでした。行列は数十個から数百個に及ぶ多量の茶壷と、京都において調達した茶道具、代金を納めた金箱、その他一行の旅荷などかなり大がかりなものでした。
当時は将軍家の茶壷が宇治を去ってからでないと、新茶を販売することは許されず、一般の人々が宇治の新茶を味わえたのは非常に遅く7月になってからでした
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