第八章 カネタタキ (3)
2003/10/05 Sun. 07:45
開いたドアの下端と、病室に入ってくる数人分の足が見えた。
先頭の白いサンダルが小走りに近寄ってきて、かちかちと機械をさわる音をたてた。焦げ茶色のパンプスが追いついて、ごそごそと枕元を探った。
「先っちょがはずれてますよ、先生」
「それでアラームが……さっき見たときはちゃんと固定してたのに……」
「あなたがはずしたんやね」
昨日も聞いた声。いや、もう一昨日か。なんだか何年も昔のことのようだ。今度は布団の上から軽くたたく気配。
「はじめまして、葺合滋くん。学校ではどうしても会うてくれへんかったね」
キアは息を殺してじっとしていた。声の主も、無理に布団をはがそうとはしなかった。
「目は覚めてるんでしょう。県中央児童相談所の二宮です。具合が悪くなければ、お話しをしてくれるかしらね」
「あんたの声聞いたとたん死にそうに気分悪うなったわ」
布団をかぶったまま、吐き捨てるようにキアが応えた。
「だいぶ元気になったみたいやね。神部や逢坂の児相からは、あっという間に逃げてしもたて聞いてるけど。今回はもうしばらくおとなしくしておいて欲しいんよ。あんまり無理して左腕がうまく動かせなくなってもいやでしょう」
「おおきなお世話や」
二宮と名のった女の人はキアの不機嫌な声にも臆さず、静かに話し続けた。
「今回の事件では、あなたは被害者なの。私たちはあなたを守る立場にいて、今まであったことと、これからのことを相談したいの」
「俺は親父んとこに帰る。あんたらに用は無い」
「お父さんは今、児相にいてはります」
ベッドがきしんで、僕の目の前に布団がずり落ちてきた。
「お前ら、親父に何を言うた!」
「あなたの負傷と入院について連絡させてもろただけです。お父さんのほうから駆けつけてくれはりました。手首と胸の傷は自分がしたことやと話してもらいました。洗面台の排水管に縛りつけて気絶するまで木刀で殴打したあと一昼夜放置したと……」
「それがどうした!家から出すなて親父に言うたんはクソ刑事やろが。仕事にもどらなあかんのに俺が逆らって逃げようとしたから……」
「暴行を受けたのは今回が初めてやないよね。学校の先生から通告を受けたときには確かめられへんかったけど」
「俺が面倒ごとばっかり起こしとったから……ぼけ担任が会社にまでしつこう電話してくるから、えらい迷惑やってんぞ。おかげで親父は外回りの仕事にばっかり行かされて、給料も減らされて……」
「初めから面倒みる自信なんてなかった。母親のところにさっさと帰らそうと思うてわざと邪険にしてたのに、いっこうにあきらめる気配がない。意地のはり合いから引っ込みがつかなくなって、度を越してしまった。今思えば人として許されることやない。お父さんはそう言うて……」
「黙れ!」
ぎしっと大きくベッドが揺れた。僕は隠れ場所から這い出してベッドに飛び乗り、拳を振り上げたキアを背後から抱きすくめた。
童顔の女性医師。児相職員の男の人と堂島刑事。大人たちがあきれたように僕を見つめた。えび茶色のスーツの二宮さんだけはキアから目をそらさなかった。僕は学校で出会ったキアの父親を思い出し、父親の話をするときのキアの顔を思い出し、県住のドアから漂い出た夕飯のにおいを思い出した。
「春ごろには仲良く暮らしてたんです。僕が面倒ごとに巻き込むまでは。滋は……お父さんと一緒にいたくて一所懸命……お父さんだって……」
「理由はともかく、結果は虐待です。私たちには刑事告発の義務があるから……」
「親父を逮捕なんかしてみろ!お前ら全員げろ吐くまでのしたるからな!」
二宮さんは首をかしげて堂島刑事を振り向いた。
「容疑者が自白しても目撃者はなし、証拠はあとから確認した状況だけで、被害者は容疑者を弁護。これで起訴できますか」
堂島さんは渋い顔で応えた。
「学校からの通告も、暴行の目撃者からではのうて、また聞きした養護教諭からでしたな」
二宮さんは向きなおってまっすぐキアの目を見つめた。
「私たちの仕事は、あなたの命とちゃんとした生活を守ることです。それがかなうなら何が何でもお父さんを犯罪者に仕立てる必要はない」
キアは今にも噛みつきそうに二宮さんをにらみ返した。僕はコルセットの上からキアの身体に腕をまわしていた。これ以上動かれたら傷をさらに痛めてしまいそうで、気が気ではなかった。
「お父さんとあなたが今後一緒には暮らさない、二人だけでは出会わない、それだけ守ってもらえるのなら……」
「俺は逢坂には戻らへんで!」
「あなたの親権者はお母さんひとりやからね。お母さんの気持ちは……」
「オカンにまで何か言うたんかよ!」
「動かないで……お願いだよ。傷がちゃんと治らなかったら……」
「電話に出てくれはったんは、お母さんのご主人でした。あなた、弟くんが溺れたときのこと、ちゃんと説明する前に逢坂児相から飛び出してもたでしょう。さっさと戻ってきて正直に話をしろ。それが津守さんの意向でした」
布団をつかんだキアの右手が震えていた。
「勝手なことばっかりしくさって……」
「こんなにあわてて事情を説明したのは、あなたにおとなしく入院していて欲しいからよ。ここで逃げ出したら、私たちも警察もあなたを捜さなければならなくなる。あなたがお父さんに会ったりしたら、よけいにお父さんの立場を悪くすることに……」
「もうええ!黙れ!この部屋から出て行け!」
キアがモニターの機械をつかんで床に叩きつけた。二宮さんに向かって枕を投げつけ、布団を蹴り落とし、薬液のスタンドを押し倒して最後に僕を突き飛ばした。
「お前もや。出てけ!出て行けぇ!」
僕を助け起こしてキアを怒鳴りつけようとした堂島さんが二宮さんに制された。
わめき続けるキアを残し、大人たちに引きずられて部屋を出た。ドアがひとりでにスライドしてぴたりと閉じた。
とたんに室内からは、ろうそくを吹き消したように何の音も聞こえなくなった。
おたおたとあたりを見まわしていた女性医師が間の抜けた声をあげた。
「輸液ラインをつけなおさないと……」
二宮さんが医師に頭をさげた。
「しばらく待ったげてください」
「……でも……」
「今は誰にも顔を見られとないんやと思います。ちょっと間、ひとりにしといたげてください」
僕は堂島さんに半分もたれかかって魂が抜けたようにドアを見つめていた。
廊下をばたばたと近づいてくる足音がした。
「聡!」
振り向くと、旅行鞄をさげた母さんが息をきらしながら駆け寄ってくるところだった。
母さんは鞄を投げ出すように置いて、いきなり僕を抱きすくめた。
「ごめんね。遅うなってごめん」
青磁色の真新しいスーツに僕の上着がこすれて血と泥の汚れがうつってしまうのもかまわずに。
「母さ……」
そんなに大きな声をださないで。病室の中まで聞こえてしまうよ。そう言おうとしたのに、ことばがうまく出てこなかった。
母さんの胸に頭を押しつけられていると、身体中の力がぬけてとろとろに溶けてしまいそうだった。
僕は幼い子供のように縮こまって、声をたてずに涙を流し続けた。
2003/10/06 Mon.
僕が家に連れ戻されて泥のように眠りこけているあいだに、宇多野先生逮捕の知らせが校区中に広まっていた。通用門のすぐそばに住んでいる生徒の家が火の元らしかった。
学校は保護者連絡会の延期を連絡網で伝えてきたが、一部の保護者が当初予定の時間通りに押しかけて教職員らと押し問答になった。
そんな話は後になって御影から聞いた。
月曜日の朝、母さんは休めと言ってくれたけど、僕は鉛のように重い身体をひきずって登校した。
校長教頭は姿を見せず、教師たちはすっかり浮き足だっていて生徒はほったらかし。授業どころかHRも全校集会も始まらなかった。
十時過ぎになってようやく臨時休校の決定がおり、僕らはせきたてられるように帰された。
家に鞄を置いて着替えてから、日曜日の朝まで過ごした病院にひとりで出かけた。
キアは既に別の病院に移されたあとだった。受付も救急病棟のナースステーションも、転院先を教えてはくれなかった。
待合室の電話帳で中央児童相談所の所在地を調べ、バスを乗り継いで移動した。幹線道路から少し離れた住宅地のはずれ、市営公園と養護学校のあいだに児相の建物があった。傾斜のきつい屋根と淡いクリーム色の外壁が幼稚園みたいに見えた。玄関のすぐ上に設置されたアナログ時計は正午少し過ぎを指していた。
「二宮さんはおられますか?」
「通所の方ですか?予約は取ってはりますか」
窓口の男の人の応対は淡々としていた。
「ここへ来たのは初めてです」
「二宮は昼休憩に出ているようですね。午後からは予定が混んでいるので、お会いする時間は……」
「烏丸くん?」
後ろから呼ばれて振り向いた。コンビニ弁当の袋を提げた二宮さんが立っていた。
手招きされて、南隣の公園まで一緒に歩いた。
木製のベンチに散らかったケヤキの落ち葉を払いのけ、ふたり並んで腰を降ろした。
「お昼休みなのに、おじゃましましたね」
二宮さんは首を傾けて微笑んだ。
「礼儀正しい中学生やね。いまどき珍しいくらい」
「一応はお礼を言っときます。滋を引き止めてくれて、ありがとうございました」
「てっきり恨まれてると思ぅてたわ」
「ああでも言わなきゃ、あいつは病院を逃げ出してた。そのまま行き倒れるか、江坂の手下につかまるか。どのみち僕の手には負えないことになってたでしょうから」
「あなたには何の責任もないよ」
さらりと言われて頬が熱くなった。口ごたえしたくなるのを我慢して話をすすめた。
「ここからが用件です。僕の質問に答えてもらえますか」
「葺合くんに会えるかと訊かれたら、だめとしか言われへんよ」
「わかってますよ。僕はあいつの保護者じゃない。あいつを叩きのめした父親でもなければ、連絡を受けながら黙り通した母親でもない」
「……きついわね」
「あいつは、母親と義理の父親のところへは絶対に帰りませんよ」
「親権者はお母さんひとりやから、いやでも送り返すんが普通やけどね」
「そうもいかない事情があるんでしょう」
「そこまで知っているなら、何を聞きたいの?」
「一般論でいいんです。家族の誰とも一緒に暮らせない子供は、どこへ行くんですか?」
「たいていは福祉施設やね」
「自分の物は持っていけるんですか」
「取りに帰るわけにはいかないから、家の人に持ってきてほしいて頼むしかないね」
「転校することになるんですか」
「行く先にもよるけど。もと住んでいた家から、しばらく離れていたほうがいいこともあるでしょう」
「入所先は同級生に教えてくれますか?」
「いいえ」
「転校の理由が本人の素行の問題や違法行為じゃないってことは知らせてくれるんですか」
「非行やろうと虐待やろうと、第三者には知らせません。本人のプライバシーやから」
僕はそこまで聞いて口をつぐんだ。スズメたちが花を落としたサルスベリの枝を飛び移るのをしばらく眺めていた。
「……手紙を書きます」
「…え?」
「滋あてに手紙を書きます。預かってください」
「そんなもの、ことづけられても渡す義務はないし、返事を期待されても……」
「返事なんかいらない。渡す気がないなら、すぐに捨ててもらってもかまわない。中身を読みたいなら好きにしてください」
二宮さんは本気かというように僕の顔を見た。
この人の目に僕はどんなふうに写っているのだろうか。駄々をこねる幼児。ひとりよがりの世間知らず。どう思われようと、一度やると決めたことを撤回する気はなかった。
「お役所の決めることに、まちがいはないでしょうからね」
二宮さんは衝かれたように大きく目を見開き、それから不思議な笑顔を浮かべた。
「堂島さんの言うてたとおりね」
「何ですか?」
「あなたのこと。折り目正しい過激派やて」
拒否とも承諾とも、はっきりした返事をもらえぬままに二宮さんと別れ、帰りは歩いて駅前に出た。文具店で萌葱色のレターセットと大判の茶封筒の束を買いこんだ。
第八章 カネタタキ (1) に戻る