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第八章 カネタタキ (2)

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2003/10/05 Sun.

 救急車が病院に着き、事態はするすると僕の手の届かないところへ流れていった。
 シロアリが群れるようにキアにはりついた大人たちは皆自分の役割を心得ていた。救急処置室のドアがぴしゃりと閉められたあと、僕は廊下にひとり取り残され膝を抱えて座りこんだ。人の話し声や足音、単調な機械音も聞こえるのに、なぜだか無音の状態よりもしんとした心地がした。冷たく湿った空気はねっとりゲル化して、息をするのも疲れるほど重たかった。
 ……ずっと昔にも、こんなふうにうずくまって誰かを待っていたことがあった。あのとき、幼い僕は待つことにがまんできなくなって……それから何が起こったのだったか……。
 どれくらい時間がたっただろう。夜間窓口あたりから声高な会話が聞こえてきた。
「どうしてうちの子をこんなところまで連れてきたんですか!」
 聞きなじみのある深い声。珍しく本気で怒っている。
「すみません。患者さんが不穏で……息子さんを離すと暴れ出したもんだから……」
 さっきまで一緒にいた救急隊員の声。救急車のなかで、キアの手を握った僕の横にずっと座っていた人だ。
 大きな手がにゅっと伸びて僕の両頬をはさんだ。父さんの顔がぐっと近づいてきた。
「けがはないのか?」
「……出血量のわりに容態が重いって言ってた」
 見当違いの返事に父さんは眉をひそめ、何か言いかけて飲み込んだ。
「顔と手は拭いてもらったんだな。しかし、着替えないわけにはいかんだろう。家にもどろうか」
「いやだ。ここにいる」
 父さんは僕の両肩を抱いたが、無理に立ち上がらせようとはしなかった。
「勇を御影さんに預けたままなんだ。きっと寂しがっているよ」
「なら、さっさと勇のとこに帰ってやればいい」
 いつも冷静な父さんが、さすがにむっとした声になった。
「ずっと捜していたんだぞ。家を離れていたせいで、かえって連絡をもらうのが遅くなってしまった」
 ひとり立ちあがって僕に手をさしのべた。
「来なさい」
 これがいつもの父さん流だ。腕づくや怒鳴り声で子供を従わせようとはしない。わかっているだろうと言わんばかりに待っているだけ。
 胃がむかむかして猛烈な怒りがこみあげてきた。
「今さら何だよ!前は助けになんか来てくれなかったじゃないか!ずっと呼んでたのに!」
 大声をあげてしまってからぎょっとした。いったい僕は何の話をしているんだ?
「……前は?……」
 父さんの顔が青ざめた。ちっともらしくなかった。いつも通りの態度に腹をたてたばかりなのに、今度は急に落ち着かなくなってしまった。
 ふたりのあいだに気まずい沈黙がおりた。
 処置室のドアがゆっくりと開くのを待ちかねたように、若い男の人が身体を横にしてすりぬけてきた。パジャマのような青いシャツとズボンの上に白衣をはおり、度の強い眼鏡と紙製のマスクをつけている。キアについて行った医師のひとりだ。
「あなたは?」
 医師はマスクをずり下げて父さんに話しかけた。
「父親です」
 状況が読めないまま、父さんは短く応えた。
 医師は眉間にきゅっとしわを寄せて、さらに一歩父さんに詰め寄った。
「一命は取り留めましたよ。失血性ショックをおこしたのは、もともとかなりの脱水状態だったせいです。補液が間にあってからのデータがこれだ」
 白衣のポケットからひっぱりだした紙切れにはぎっちりと細かい数字が印字されていた。それを父さんの鼻先につきつけて医師がまくしたてた。
「ケトアシドーシス。低アルブミン血症。鉄欠乏性貧血……あんた、子供を飢え死にさせるつもりだったのか?」
 父さんは憮然として年下の医師を見つめ返した。
 廊下中に響きわたった騒ぎを聞きつけたのだろう。堂島さんがこちらに走ってきながら、さらに大きな声をだした。
「先生、ちゃいますがな。この人は被害者の家族やない」
「けど今、父親って……」
「私はこの子の父親です」
 父さんが僕に手をふってみせた。
 医師はようやく誤解に気がついて、ばつが悪そうに眼鏡を押し上げた。謝罪もせずにくるりと後ろを向いて処置室に戻っていった。
 堂島さんのほうが恐縮して、ぺこりと頭をさげた。父さんが何か訊こうとしたが、携帯の着信音にさえぎられた。
 刑事さんは僕らを気にしながら通話口を覆って話しだした。
「……はい。いや、江坂とちゃいます。肩の傷は千林っちう……肋骨骨折?……いや、それも別件で……」
 通話を続けながら大股で来た方向に歩いていってしまった。
 僕の頭にはさっきの医師の話ががんがん鳴り響いていた。キアが助かったと聞いてほっとするどころか、まかり間違えば命を落としていたと知って胸がぎりぎりと痛んだ。自分の軽はずみな行動が許せなくて、今となっては何もできないことががまんできなくて。膝頭に顔を押しつけて必死で涙をこらえた。
 父さんはそっと僕のそばを離れた。堂島さんの去ったあとを追い、受付の人や通りかかった看護師さんと何事か話して戻ってきた。
「場所をかえよう。立ちなさい」
「家には帰らない」
「このドアの向こうにはもう、友達はいないよ。病棟に移送されたそうだ。ここにはすぐに別の患者さんが運ばれてくる。家族待機室にいるのはかまわないと言ってもらったから、邪魔にならないうちに移動しよう」
 反論の余地などなかった。僕はしぶしぶ腰をあげ、父さんのあとについて行った。

 改築されたばかりの救急病棟の向かいに旧病棟の建物が残っていて、家族待機室はその一階の隅にあった。大きな病室のベッドを取り払ってビニールレザーの長いすを並べただけの殺風景な部屋だった。
「僕ひとりでいい。勇を迎えに行ってやってよ」
「中学生以下は保護者同伴が規則だよ。勇のことは御影さんに朝までお願いしてきた」
 救急車のサイレンがさっきまで僕がいた方向からうるさく鳴り響いてきて、ぱたりとやんだ。
 しばらくして家族連れらしき人たちがどやどやと待機室に入ってきた。ころころに太った中年夫婦と幼い子供が三人と年とった女性と、若い男の人が二人ほどとその相方の女の人たちと。僕にはさっぱりわからない言葉でかしましく話し合い、足を踏みならし、涙ぐみ、なぐさめあいの騒動になった。
 僕と同年輩の女の子がドアから顔をつっこんで何事か叫んだ。一族がわっとばかりに彼女を取り囲み、口々に質問をぶつけだした。女の子は通訳をつとめているらしい。横に立った年輩の医師の話を聞いてはひたすらしゃべり続けた。何十分かたってようやく全員が状況を呑みこんだらしく、今度は大人同士がわあわあと議論をはじめた。さらに何十分かたって話がまとまったようだ、お互いの肩をたたきあいながら、三々五々ほぼ全員が帰って行った。
 残ったのは中年の男の人がひとりと、僕と父さんだけ。
 東の空がうっすらと明るくなってもキアの家族は誰ひとり現れなかった。
 向かいの長いすに寝転がった男の人に日本語はわからなかったと思う。それでも父さんは相席の人がいびきをかき始めるまで待って、僕に小声で話しかけた。
「さっきの話だがね。私が助けに来なかった、というのはいつのことだったのかな」
 この状況でそんな話を蒸し返されたくなかった。僕は長いすの端に身体をまるめてそっぽを向いていた。
 しばらくして父さんがつぶやいた。
「……覚えていたんだな」
 それじゃあ、親は始めっからわかってたんだ。僕が忘れているならそのままにしておこう。今までそんなふうにほったらかしていたのか。
 また胃のむかつきがひどくなって吐き戻しそうだった。それでも今の僕には考えなければならないことが他にあった。
 キアの親類縁者に会えないかぎり、僕が容態を教えてもらったり面会できる可能性はない。それがわかっているから、父さんは僕があきらめるのを黙って待っているんだ。ならばこちらから行動をおこすしかない。
 さっきの一族は「お祖父ちゃんを個室に入院させてやって欲しい」と医師に懇願していた。「最後の空室が埋まってしまったところだ。警察の要請があるので今から変更はできない」というのが返答だった。
 父さんが部屋を出ていった。二時間おきのパターン。たぶん御影さんへの連絡のために。パターン通りなら戻ってくるのは約二分後。
 僕は頭の中で二十数え、父さんが置いていったジャケットをはおって部屋を出た。
 汚れた上着を見られないようにジャケットの前をあわせてまっすぐ背筋をのばし、何食わぬ顔をして引継ぎ連絡中のナースステーションを通り過ぎた。
 個室の並ぶ廊下を通過して角をまがり、一呼吸おいて引き返した。患者名の掲示されていない病室はただひとつ。誰も見ていない隙をねらい、静かにドアを引いて忍び込んだ。

 部屋の中はむっとするほど暖かかった。僕はジャケットを脱ぎ、足音をたてないように気を使いながらベッドに近寄った。
 キアは目を閉じて仰向けに横たわっていた。お仕着せの寝間着に右腕だけを通し、左腕から肩まではごついテープと包帯でがんじがらめに固定されている。胸にはプラスチックのコルセットがはめられていて、隙間から青黒い打撲痕が見え隠れしていた。
 きりきりと痛む鼓動に耐えながら恐る恐る顔をのぞきこんでみた。
 出し抜けにさっと伸びた右手が僕の顔を押さえた。
 あやうく叫びそうになり、焦って口を閉じたひょうしに思い切り舌を噛んでしまった。
「騒ぐなよ」
 キアがささやいて、くすりと笑った。僕を見上げた目には、おなじみの冴えた光が戻っていた。
 涙がにじんだのは舌が痛かったからだ。
「驚かすなよ。かえって大声出しちゃうとこだったじゃないか」
 口をふさがれたまま返事したので、もごもごとよくわからない音になってしまった。キアはわかったよ、というように手を離して僕の胸を軽くたたいた。
「ラス。今、何時や」
「え……八時前頃かな」
「ふん。思ったより長いこと寝てもてんな。ぐずぐずしとれん」
 キアはがばっと身を起こした。何本かのコードがずるずるとくっついてきたのをうるさそうにつかんでひっぱった。ほっそりした首筋から電極シールがべりべりと音をたててはがれた。
「トンコするで。出口教えろ」
 コードにつながっていたリモコンのような小箱がピーピー鳴り出した。僕は機械に飛びついて電源スイッチをオフにした。
 キアは腰から下に掛けられていた薄い布団を蹴とばした。寝間着の裾に手をつっこんで半透明のチューブを引き抜き、軽く身震いしながら悪態をついた。
 僕は機械を手にしたまま、金魚のように口をぱくぱくさせて棒立ちになっていた。
 キアはさらに右腕を持ち上げ、点滴チューブを固定した絆創膏に噛みついてぐいと首をねじった。留置針が絆創膏ごとはずれてチューブが垂れさがり、床に薬液がこぼれ落ちた。やっと自由になった身体でベッドから降りようとして、キアはふらっとよろめいた。
 その腕をつたう血を見て僕は我にかえった。機械を放り出してキアの手を引き寄せ、針の抜けた穴に自分の袖口を押しあてた。
「無茶すんなよぉ。七時間前には死にかけてたんだぞ」
 キアは唇を噛んで青ざめた顔をあげ、僕を押しのけて床に立とうとした。
「ぼけっとしとったら、いらん連中が来てまうやろが。早うせなごたごたにまきこまれる……」
 病室の外から足音と甲高い声が聞こえた。
「バイタルの確認が先です。まだ話ができる状態かどうか……」
 キアはぱっと布団をつかみ、頭からすっぽりとかぶってベッドに寝転がった。
 手を離された勢いで僕は床に尻をつき、そのままベッドの下にあたふたともぐりこんだ。プラスチックの衣装ケースの陰に隠れて、そっと外をのぞいた。


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