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第五章 アキアカネ (4)

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2003/09/09 Tue. 15:50

 住之江は金切り声をあげて逃げだそうとしたが、両腕をばたばた動かすばかりで立ち上がることもできない。
 そこへ歩み寄った男の人が、手にした木刀を廊下にごろんと投げ出した。
「そら。やり返したれよ。気の済むまでな」
 つぶやくように低い声なのに、全身の毛がぞくっと逆立った。
 少し長めのまっすぐな黒髪。油染みのついた灰色の作業服。無駄なところの全くない引き締まった長躯。この人がキアの父親……。
 住之江は尻を床にこすりつけたまま、ずるずると後ろに下がった。歯の根もあわないほどがちがちと震えていた。
 キアは背中をまるめて転がったままぴくりとも動かない。父親はその腹の下に足をつっこんで蹴りあげた。
「遠慮すんな。仕返しする気もおきんようなるまで、いてもたれ」
「やめてください!」
 僕より先に走り出たのは住之江の母親だった。自分の息子に駆け寄って抱き起こし、男の人をきっとにらんだ。
「あなたみたいな野蛮な方とは、お話し合いになりません」
「謝らせろ言うてきたんはそっちやろが。自分の手で落とし前つけさせえや。男ならな」
「もう結構です。これ以上かかわりたいとも思いません。こんなひどい学校にうちの子を行かせたのがまちがいでした」
 母親は息子を立たせようとしたが、住之江はすっかり度を失って身動きできなくなっていた。
「庚一!」
 キアのところへ走っていこうとしていた僕はぎょっとした。
 住之江の母親が息子の手首をねじったのだ。
 他の人からは死角になって見えなかっただろうが。
 住之江はひゅっと息を吸って反射的に立ち上がった。
「帰りますよ!ぐずぐずしないで」
 息子を背後からせき立てるようにして出て行く母親を、教頭と宇多野先生があわてて追いかけるふりをした。母子の姿が見えなくなったあたりで、やれやれと立ち止まるのが見えた。本音は厄介払いできてほっとしたということだろう。
 キアの父親はもう住之江母子など見てもいなかった。木刀を拾って応接室に戻り、飾り棚の優勝カップの横に放り込んだ。……すると、あれは先々代のPTA会長が寄贈したとかいう銘入りの一品だったんだ。
 部屋を出てきたところで、キアを助け起こした僕と目があった。
 言いたいことは山ほどあるはずだった。けれども、表情の読めない怜悧な目に射すくめられて、ことばが出なくなってしまった。
 キアの父親は僕らの前をまっすぐ通り過ぎてそのまま立ち去ろうとした。
「連れて帰ってあげないんですか」
 思わず口走ってしまってから、身体が震えだした。
「仕事にもどる。これ以上面倒かけんな」
「親なんでしょ!」
 死ぬほどびびっているのに叫んでしまった。
 父親はそんな僕をちらっと見てうっすらと笑みを浮かべた。
「寝るとこがない言うから、追い出さへんだけや。」
 それだけ言い残して、大股で出て行ってしまった。
 あたりが静かになるのを待っていたみたいに、門真が応接室から顔を出した。
 僕以上に怯えているようだったが、壁に手をつきながらあたふたと逃げ出していった。
 最後に出てきた伏見先生は憮然とした表情で僕らを見下ろした。
 僕が顔をあげると、ばつが悪そうに視線をそらした。
「これで懲りたやろ。次からは気をつけろ」
 もういい。みんな勝手にしろ。
 僕はキアの身体をかかえあげ、脇を支えながら保健室を目指した。
 キアは人形のように無表情のまま、足が木の棒でできているみたいにぎくしゃくと歩いた。

 保健室は無人だった。
 ベッドの上に降ろされたところで、キアの目がようやく焦点をむすんだ。
 はっとして素早くあたりを見わたした。
「ここは……」
「保健室だよ。すぐに壬生先生を呼ぶから……」
「……いらん……」
 いきなり立ち上がろうとした身体ががくんと傾いた。
 僕はあわててキアをベッドへ押し戻した。
 キアは顔をしかめて自分の足首をつかんだ。
 父親に吊されたときにくじいたのか。今までたいしたことないように見えていたところが、みるみるうちに赤く腫れあがってきた。
「これじゃあ動けないだろ。ちょっと待ってて……」
 キアは待たなかった。
 僕を無視して、片足をひきずりながら保健室を出て行こうとした。
 そのとき、廊下の向こうから誰かがどかどかと走ってくる音が聞こえた。
 僕はとっさに開いていた廊下の窓に跳び乗り、キアの腕をつかんで身体をひっぱりあげた。勢い余ってそのまま一緒に屋外へ転げ落ちた。
 タッチの差で複数の足音が通り過ぎ、保健室に駆け込むのが聞こえた。
「どこや。どこにおる!」
 淡路の声だ。知らせたは門真か。
 キアの下敷きになって雑草に埋もれながら、僕は必死に息をとめていた。
 連中がまたどかどかと走り去るのを待って身を起こした。
「学校の外へ出よう」
 葉の先が黄色くなりかけた草をかきわけ、両肘と膝をついてずりずりと這いながらフェンスの隙間を探した。
 池へ出たからといって安全かどうかなんてわからなかったが、その時には竜神様のご加護を頼るほかない気分だったのだ。
 振り向くと、キアが真っ青な顔をしてうずくまっていた。
 後戻りしてそのベルトをつかみ、引っ張りあげながら前進を再開した。
 青池への抜け道は海を渡るほどに遠く感じた。お願いですどうかみつかりませんようにと念じながら、キアの身体をなんとかフェンスの下へ押し込み、続いて自分もくぐりぬけた。すっかり息があがってしまい、その場に座りこんで額の汗を拭った。

 ひと休みして立ちあがり、キアをかばいながらのろのろと茂みをかきわけて歩いた。ようやくたどりついた池のほとりは、なんだかいつもより薄暗かった。
 敷地の周囲が工事現場で見かけるような可動式のフェンスにきっちり囲われていた。林にぬける道をふさぐように小さなプレハブが建てられていたが、人のいる気配はなかった。
 お供えのご利益だろうか。この状態なら外からはいりこむのも中の気配をうかがうのもちょっとは面倒だろう。
 プレハブの外壁にそっとキアをもたれさせ、保健室でポケットにつめこんできた消毒薬とスプレー式の消炎鎮痛薬をひっぱり出した。
 簡易水道の水でハンカチを湿らせて顔や手を拭いてやった。両腕は本が落ちてきたときに顔面をかばったらしく、無数の擦り傷と打ち身ができていた。上履きと靴下を脱がせて、リンゴのようにぱんぱんに腫れた足首に薬をスプレーした。
 それからカッターのボタンをはずしにかかった。
 脇腹には大きなミミズ腫れができていて、皮膚の裂け目から血がにじんでいた。本棚にぶつけられたときの傷か。背中には廊下にたたきつけられたときの打撲痕。
 せっせと薬を塗りこむうちに、スプレー缶がからになった。
 身体の前面にたいした傷はないようだ。背中を丸めてうまく受身を使ったのだろう。
 けれど……。
 顔を近づけてよく見ると、肩や胸にうっすらと白っぽい筋がついていた。本の角が当たったんじゃない。長くてまっすぐな痕……。
 それまでぼんやりと座ったまま手当を受けていたキアが、僕の手を押しのけてカッターをつかんだ。
「……もう、ええ……」
「それ……前に叩かれたときのか?そういうこと、しょっちゅうあるのか」
 キアは前ボタンを留めながら、僕を元気づけようとするみたいに笑った。
「たいがいは放ったらかしてくれとうよ。たまーに俺がどじった時にぶちキレるだけでな」
 けがをしていない右足の力だけで立ち上がり、左足をそろりと地面におろした。
「まあ、今日は久しぶりに派手やったかな」
「病院に行こうよ」
「保険証、持ってへんし。オカンとこに置いたままや」
 そういえば、キアは住所変更の届けさえだしていなかったのだ。
「骨はどうもないやろ。ほっといても治るわ。もう配達に行かな」
「無理だよ、その足じゃ」
「自転車に乗ってまえば、どないでもなる」
「ちゃんと連絡とって休ませてもらえよ」
「食い扶持稼がんなん。居候やから」
 僕は鎮痛薬の空き缶を地面にたたきつけた。缶はワンバウンドしてプレハブの壁にぶつかり、ぺこっと音をたてて転がった。
「なんでそうまでして、お父さんとこにいたがるんだよ。もうお母さんとこへ帰れよ。何があったか知らないけど、意地をはらなきゃなんとかなるんじゃないのか」
 キアはひょこひょこと肩を上げ下げしながら池の端まで歩き、手すりにもたれて身を乗り出した。
 夕凪の時間だった。池の表にはさざ波ひとつ立っておらず、緑色の水面がくっきりと顎の細い顔を映し出した。
「俺、親父に顔似とうやろ」
 キアは前髪に指をつっこんで、つぶやいた。
「こんなもん毎日見とったらオカンはいつまでたっても親父を忘れられへん。せっかく新しい亭主とやりなおそ思うてんのに、気ぃ悪いやんか」
 胸がかっと熱くなって、僕は乱暴に言葉を吐いた。
「そんなこと、ない」
 無性に腹がたっていたが、それをどこにぶつけたらいいのかさっぱりわからなかった。
「キアを育てたお母さんが、息子を邪魔者あつかいするわけがない」
「……ああ……」
振り向いたキアは、はにかんだように微笑んでいた。青ざめた顔に血色が戻って、少し元気が出てきたようだ。
「せやから、なおさらやねん。優しゅうて自分からは男に何もよう言わん。それで何度もこけとうからな。今度こそ楽になって欲しい」
 そんなの、おかしいじゃないかと言いたかった。子供が親に気を遣って家を出るなんて。けれど、キアが誰も恨みたくないのがわかって、何も言えなくなった。

 池の周りのフェンスを先にまたぎ越して、キアが続くのを手伝ってやった。
 プレハブの横で拾った鉄パイプをつきながら歩くキアに並んで、商店街に向かうだらだら坂をくだっていった。
「……鞄、置いてきてもたな」
 それを言うなら靴だって上履きのままだ。腫れあがった足にはそのほうが楽そうだけど。
「あとで僕のと一緒に回収しとくよ」
 話すうちに坂道が急勾配にさしかかり、ふいに視界が開けた。
 沈みかけの太陽と西の空いっぱいに赤々と広がった夕焼けが僕らを包み込んだ。
 今年はじめて見るアキアカネが二、三匹、僕の後ろからついと飛んできてキアの目の前でホバリングした。
「へえ……」
 キアは片手を額にかざして夕日にみとれていた。まぶしそうに細めた目に赤い光がきらきらと反射し、頬まで赤く染めて上気したように見えた。
「……きれいや」
「……ああ……ほんとだ」
 僕が見ていたのは夕焼けではなかったけれど。
「ほら、あの高いビルの横な。赤と紫のまじった色。ああいうのん好っきゃな」
 キアは右足でひょいと跳ね、パイプを空にさしのべた。トンボがすいと逃げると、その場でくるりと身体をまわしてくすくすと笑った。
「ラス。こんな話、知っとうか?」
「え?」
「昔むかし、ツバメは宙返りができんかった。トンボの宙返りを見て感心して、教えてくれ言うて頼みこんだ。気のええトンボは何も考えんと親切に教えたった。そうしたら、ツバメは習った技を使うて片っ端からトンボをつかまえて食べてもうた。びっくりしたトンボは山へ逃げて、ツバメのおる間は里に降りて来んようになった」
「へええ」
「そんなんで、赤トンボは今でも秋にならんと見かけへんのや」
「聞いたことない話だな。それ、誰に教わったの?」
「親父や」
 どきっとして立ち止まった僕の顔など気にするようすもなかった。キアは小さな子供のように屈託なく笑うと、かなりしっかりしてきた足取りで歩いていった。
「もう、ええわ。ひとりで歩ける。鞄もほっといてくれ」
「……キア。言い忘れてた」
「ん?」
「今日、誕生日だろ。おめでとう」
 一拍の間をおいてキアがまた笑った。
「一年生き延びたんか。やっぱめでたいんかな」
 そうして立ち止まった僕に軽く手を振って、夕日に溶けるように歩いていった。

 僕は学校に引き返して二人分の鞄と靴を回収し、家に持ち帰った。
 しばらく思案したが、やっぱりどうしても気になった。
 夕食後、キアの鞄と靴を自転車の前かごに積んで県住へ走った。
 四階まで上がって、つきあたりのドアへ足音をしのばせて近寄ってみた。心臓が外から聞こえるんじゃないかと思うほど、どきどきと音をたてていた。
 ドアの隙間から湿っぽく暖かい空気がもれて、醤油のこげる香ばしい匂いがした。おだやかな話し声もかすかに聞こえた。
 身体の緊張がいっぺんに抜けて、しゃがみこんでしまった。
 安堵したはずなのに、なぜだか涙がこぼれそうになって焦った。
 荷物をドアの前に置き、軽くノックして急いでその場を離れた。ドアの開く音を背中で聞きながら、全速力で階段を駆け下りた。


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