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第五章 アキアカネ (2)

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2003/09/04 Thu.

 太平洋を迷走していた台風十九号は、水曜日の真夜中に列島を横断してまもなく勢力を落とした。
 生徒たちの祈りもむなしく、暴風雨警報は朝までに解除され、学校は一日も休みにならなかった。
 おそらく天気とはまったく関係のない理由で、高井田はほとんど教室に出てこなくなった。
 登校はしてくるのだが、授業が始まっても廊下や校庭の隅をひとりでうろついていることが多い。
 玉出先生を避けているようで、先生が授業をしているとわかっている時間には気が抜けたみたいに自席にへたりこんでいたりもする。
 不思議なことに、いままでたむろしていた旧校舎の部室には近づこうとせず、淡路や茨城とさえ一緒にいるところを見かけない。かといって欠席するわけでもない。学校の外に出たら、今度は堂島さんにつかまるとでも思っているのだろうか。
 うそうそと落ち着かない高井田にかわって、大きな顔をし始めたのは門真だ。
当惑気味の三国をひきずって、自分がクラスのボスだとでも言いたげに偉そうな態度をとっている。
 さしたる理由もないのに、弱いものへの下品なからかいやちょっかいをしつこく繰り返す。成り上がりのさもしさで、高井田より始末が悪かった。
 一番の標的になっているのは住之江だ。席がたまたま門真の前になってしまったことで、授業時間中ずっと背後から鉛筆でつつかれたり消しゴムを奪われたりしている。
 黙ってがまんしている住之江を、キアは最後列からずっと見ていた。昼飯時には僕に何か言いたそうにしていたが、結局どちらもその話題を切り出すことはしなかった。

 すっきりしない気分のまま青池から戻ってみると、教室から耳に痛いほどの金切り声が聞こえてきた。
「このドブス、クソダボ、サル!」
「ボケ、タコ、カス女!」
 人だかりの真ん中で、二人の女子生徒がにらみあっていた。
 ひとりは本山、もうひとりは以前から目立っていた茶髪の二年生だ。
 何が発端かわからないが、もうかなりの時間言い争っていたらしい。かすれかけた声で、およそ女の子らしくない罵りことばをくりかえしぶつけあっている。
 僕は二人を迂回して御影のそばに行った。
「とめなくていいのか?」
 いつもは仕切りたがりの彼女が処置なしというように両手のひらを上に向けた。
「おもちゃの取り合いみたいなものよ。ばかばかしい」
 御影ほど冷静になれない女子たちが、はらはらしながら二人を遠巻きに見守っていた。二年生も数名まじっている。
 とうとう本山が二年女子の頬を張り倒した。負けじと相手は本山の髪をつかんでひっぱった。本山がとっさに相手の襟元に手をかけたので、二人は団子になってバランスを崩し、そばの机にぶつかった。
「もうやめぇよ、塚口」
 見かねた二年生のひとりが塚口と呼ばれた女子の身体を抱いて引き離した。その拍子に、ぎちっとつかまれたままだった本山の髪が数本まとめて引き抜かれた。
本山は悲鳴をあげて、後ろから腕をとろうとした同級生を払いのけた。
「離してぇよ!」
 塚口が腹を抱えられたまま、くの字に身体をまげた。
「静かにせんか。もうチャイムは鳴っているぞ」
 いつもとちっとも変わらない口ぶりで入室してきたのは宇多野先生だ。
 いつもとは違う女子生徒たちの惨状に気がついて、一瞬呆けたように足をとめた。当惑気味に漂った視線が、何かをみつけた。
 宇多野先生はつかつかと本山に歩み寄り、髪をおさえている手をつかんでひっぱりあげた。
「おい、何をつけている」
 いやがって頭を横に振った本山の耳元がきらりと光った。
 ピアスだ。グラニュー糖のように小さい透明な飾りだが安物には見えない。
「……ガラスの屈折率じゃないな」
 僕の独り言に御影が肩をすくめた。
「ダイヤモンドよ」
「気がついてたのか?」
「さっきまで自分で見せびらかしてたわ。それが騒ぎの発端」
 宇多野先生がひっと声をあげて本山を突き飛ばした。左手の甲に歯型がついて、皮膚のめくれた部分に血の玉が浮き上がっていた。
 本山は机に背中を押しつけて先生をにらんだ。
 先生は傷ついた手をかばいながらも、目を血走らせてじりじりと女子生徒ににじり寄った。
「装飾品は校則違反だ。職員室に来い」
 近寄られた分、本山はぎしぎしと机を押して後ろに下がった。塚口は棒立ちになって先生を見ていた。
「いやなら、ここで今すぐはずせ」
 眉をつりあげて何か言おうとした本山がはっとした。
 廊下から中窓越しにこっちを見ているやつに気がついたのだ。
 売布だ。長身を窓の高さまで折り曲げ、以前キアに向けたのと同じ、爬虫類のように冷ややかな目でこの場のやりとりをながめていた。
 その後ろにくっついて落ち着きなく身体をゆすっているのは高井田だ。
 本山は不承不承といった体で両耳のピアスをはずした。宇多野先生の接近をかいくぐり、スカートのポケットに握り締めた拳をつっこんでそっぽを向いた。
 ダイヤの輝きが視界から消えると、先生は憑き物が落ちたみたいにいつもの表情に戻った。それ以上深追いしようとはせず、本山に背を向け、足をひきずって教壇にのぼった。
 塚口と二年生たちは目配せして教室から出ていった。
 本山と仲のよい女子が聞こえよがしに文句を言った。
「なによ、あれ。二年には何にも注意しないわけ?ずるい。ひいき!」
 宇多野先生は聞こえないふりをしていたか、本当に聞いていなかったのか。生徒たちに声をかけることもせずにいきなり板書を始めた。
 僕は御影に小声で訊いた。
「女の子って、あんなアクセサリを取り合ってつかみあいのケンカをするのか?」
 御影は目を丸くして僕を見た。そして、心底ばかにしたように笑った。
「取り合ってたのはピアスじゃないわ。ピアスをくれた江坂よ」
「え……」
 僕がことばの意味を飲み込むより先にキアがつぶやいた。
「乗り換えた男はほっといて、女どうしで噛みあうんかよ」
 本山が急に色っぽくなったわけに思い至って、頭がくらっとした。
 教室の前の廊下を売布がすまして通り過ぎた。高井田はその横に追いつこうとしていきなり足払いをくらった。膝をしたたかに打ってうめく元手下を残し、売布は振り向きもせずに去っていった。

2003/09/08 Mon

 朝の台所で弁当箱に飯を詰めながら母さんが言った。
「聡、この頃よく食べるわねえ。お弁当箱、ひとまわり大きくしたのに全然残さないし」
 僕はトーストを喉につまらせそうになって、あわててマグカップのミルクティーを飲み下した。
「おかず入れを別にしよか?」
「いや、いい。そこまではいらない」
 あわてて母さんに手を振った。
 今までもキアの面子を損ねないように様子をうかがいながらお昼をわけていたのだ。
 あまり露骨なサービスをしたら、かえってそっぽを向かれてしまう。
 母さんは菜箸で卵焼きをつまみあげながら小首をかしげた。
「ほんまは、あんまり塩分や澱粉質を摂らさんほうがええんよ」
「え……」
「雨がかからんようにしたげてる?」
「ええっ……」
「別にうちで飼うたらあかんとは言うてへんよ。三匹も四匹もおったら、ちょっと窮屈やろけどね」
 思わず噴き出しそうになって口元を押さえ、背中をまるめた。
 母さんは僕が仔犬だか猫だかに餌をやってると思っていたらしい。きょとんとして僕の肩がひくひく震えるのを見た。
「ちょっと……カメかタヌキくらいならええけど、まさかイタチやとかウリ坊とか言わんとってよ」
「いや……そんなんじゃないんだけど……」
 うっとうしい出来事が続いて殺伐としていた気分が、なんとなくなごんでしまった。
 母さんになら、人間の男の子なんだと話しちゃってもいいかもしれない。
「ん……実はさあ……」
「めずらしくご機嫌だな、聡。いいことでもあったのかな」
 父さんがリビングから台所をのぞいた。とたんに胸の奥がしん、と冷たくなった。
「別に」
 僕は話を打ち切って弁当箱の袋をつかみ、父さんの横をすりぬけて玄関に向かった。

 三限目の体育、男子は剣道の初日だった。
 体育館の壁際には係の生徒が倉庫から運んできた竹刀が山積みにされていたが、伏見先生は見向きもしなかった。
 生徒たちを整列させると、基本的な所作から教え始めた。
 両足を軽く開いてまっすぐ立つ、きょろきょろ余所見をしない、礼の角度は二十度、膝を片方ずつついて正座する、手を膝にのせたら動かさない。
 立つ、礼、座る、礼、立つ……。
 単調な稽古が何十分も繰り返されたが、剣道三段の先生に敢えて逆らう者はいない。
 もうあと十五分ほどで終了という時、三年担当の体育教師が重い扉を押し開けて顔をつっこんできた。
「伏見先生、ちょっと……」
 先生は
「そのまま待っとれよ」
と言い残して体育館を出て行った。
 生徒だけになったとたんに、門真が大あくびをした。
「あほくさい。チャンバラできるか思うて出てみたら、なんやねん。フケとったほうがましやったで」
 そうしてぶらぶらと列から離れると、積んであった竹刀を一本とって、ぶんと振った。
「自主トレや。ほれ、つきあえ、カス」
 竹刀を投げつけられた住之江はかろうじて受けとめ、おろおろと周囲を見まわした。
 周りの生徒たちがじりじりと後退したせいで、彼の周囲に直径二メートルほどの空間ができてしまった。前へ出ようとした僕は三国に阻まれ、はらはらしながら成り行きを見守った。
 門真はTVゲームのキャラクターのように格好をつけて、頭上でぐるりと竹刀を振り回し、住之江が手にした竹刀めがけて打ちおろした。
 ばしんと大きな音がした。
 住之江はへっぴり腰で後じさった。竹刀を持った両手で顔をかばいながら泣きそうな声をあげた。
「やめて……」
 門真が容赦なく二度、三度と竹刀を振りおろした。
 住之江はとうとう竹刀から手を離して悲鳴をあげた。逃げ出そうとした足に自分が落とした竹刀がからんで、棒杭のように転倒した。顔面がもろに床にぶつかって、ごつん、とにぶい音をたてた。
「危ない!」
 顔をおさえて転がったままの住之江に、なおも門真が竹刀を振りおろそうとした。
 これはもう放っておけなかった。
 僕は襟首をつかもうとした三国に体当たりしてつっ走った。
 住之江の上にダイブしておっかぶさり、身を固くして打撃にそなえた。
 頭上でぱしり、と音がした。
 振り仰ぐと、僕の頭の二十センチほど上でキアが竹刀の先端をつかんでいた。
 門真はとっさに腕を引き戻そうとしたが、キアは手を放さない。
 じりじりと竹刀を持ち上げ、ぐいと横にねじった。
 門真は竹刀ごと転がされそうになり、たたらを踏みながらかろうじて持ちこたえた。
「竹刀はイジメの道具やない」
 床に片膝をついたまま、キアは門真を燃える目で見上げた。
 その声は低く静かだったが、有無を言わせぬ力がこもっていた。
 門真はびくっと身を震わせ、すぐに口惜しそうに顔をゆがめた。
「うっさいんじゃ!」
 大上段に振りかぶったところで、喉元すれすれに竹刀の切っ先をつきつけられて凍りついた。
 キアが住之江の竹刀を拾い、ぴたりと正眼に構えていた。
 隙のない立ち姿に、伏見先生が教えようとしていたのはこれだったのかと納得してしまった。
 一瞬、状況を忘れて見とれていた僕は、生暖かいものが手の甲に滴りおちたのを感じてはっとした。
 顔面を押さえた住之江の指のあいだから、血があふれてこぼれていた。
「けがしたのか?」
 目から涙を、鼻と口から血を流し続ける住之江を助け起こしてなんとか立ちあがらせた。
「保健室まで歩けるか?」
 門真が苛立たしげに叫んだ。
「そいつが勝手にすっ転んだんや!」
「動くな!」
 キアの竹刀が門真の喉仏にわずかに触れた。
 門真は思わずのけぞって口元をひきつらせた。
「はよ連れったれ」
 まっすぐ前を見たまま、キアが僕に言った。
 あらためて周囲を見まわしたが、他の生徒達は三国も含め置物のようにかたまっている。
「誰か先生を呼んできてくれよ」
 僕の頼みにも動こうとするやつはいなかった。
 状況は気になったが、僕が住之江を保健室に連れて行くしかなさそうだった。
 ふてくされた門真と静かに熱くなっているキア、無言の同級生達を残し、僕は住之江の手をひいて体育館を出た。

 住之江の症状は鼻血と前歯の脱臼だった。
 壬生先生は応急手当をしながら生徒の自宅と歯科の校医に電話をかけた。どちらもなかなか繋がらないようだ。
「烏丸君。ごめんやけど、宇多野先生さがしてきて」
 養護教諭に頼まれて、僕は職員室に走った。
 途中、体育館へ戻る伏見先生を見かけてほっとした。
 担当教科の授業は入っていない時間のはずだったが、宇多野先生は席にいなかった。
「ついさっき、教室に行く言うて出て行かはったよ」
 他の教師にそう教えてもらって、僕は階段を駆け上がり、一年C組の教室のドアを勢いよく開けた。
「宇多野先生!」
 教壇の下に立った先生の背中がびくっと震えて両腕が跳ね上がった。振り向いた拍子に後ろの机に置かれたケージに肘がぶつかり、がたりと揺れた。
 驚いた文鳥がぴいぴいと騒いだが、先生はそれ以上に泡を食っているようだった。
「な……あ……か、烏丸か」
 なんとか態勢をたてなおし、とってつけたみたいに厳しい顔になった。
「まだ授業中だろうが。体育館に戻れ」
「けが人です。保健室に連絡をとってください」
 想定外のことを言われたせいか。ふっと目の焦点がぼけたみたいだ。
「……先生?」
 僕が一歩前に出ようとしたところでチャイムが鳴った。まもなく男子生徒達がどやどやと戻ってきた。
 宇多野先生はようやく何をしなければならないか飲み込んだようで、生徒達に肩をぶつけながら教室を出ていった。
 男子達は担任など無視して着替えを始めた。住之江がいないのは当然として、キアの姿も見えなかった。
 門真がこっちを見て思わせぶりに笑った。
 僕は胸騒ぎを覚えて、男子達のざわめきのなかにはいりこもうとした。
 誰でもいいから、あのあと体育館で何があったのか教えて欲しかった。ところが、みんなはなんとなく僕を避けて、まともに話しかけることすらできなかった。千林は相変わらず敵意をこめた目を向けてきた。常盤でさえ僕を見るとあわててカッターのボタンをとめるのに忙しいふりをした。
 そのうちに更衣室で着替えを済ませて戻ってきた女子たちが何やらざわざわと騒ぎだした。
 なんだか全員が熱にうかされているみたいで、僕ひとりが蚊帳の外に置かれた気分だ。
 御影に事情を聞こうと思いついたときにはもう四限目が始まってしまった。


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