第三章 フンコロガシ (4)
2003/07/09 Wed.
自分でも言ったとおり、風邪はひかなかった。でも、腹をこわした。
期末考査一日目は国語、数学、技術家庭。
症状は嘔吐から始まった。ハンカチを口につっこんでかみしめ、喉の奥からこみあげてくるものを抑え続けた。問題に集中するのが精一杯で、他の連中のことを観察したり考えたりする余裕などなかった。
休み時間、僕がトイレに駆け込むたびにキアが護衛に立っていたことは、ずっと後になって御影に教えられた。
その御影が大宮と一緒に住之江のお守りをしてくれていたことは、さらに後になってキアに聞いた。
2003/07/10 Thu.
嘔吐に続いて、下痢がはじまった。
家族には隠し通すつもりだったが、朝の牛乳を吐き戻したことでばれてしまった。
学校を休めと言う母さんを拝み倒し、養護教諭に連絡をとるという条件でなんとか登校させてもらった。壬生先生が母さんに何か言うんじゃないかと気になって生きた心地がしなかったが、口止めの約束は守ってくれたようだ。
期末考査二日目は理科、音楽、美術。
腸管がのたうつ痛みを脂汗をたらして堪えた。チャイムが鳴るたび保健室から借りた膿盆をかかえてトイレにこもった。
2003/07/11 Fri.
食事はおろか、水を飲んでも戻してしまう。出すものがなくなっても腹はよじれる。足元がふわふわして雲でも踏んでいるみたいだ。目の周りがぼうっと熱っぽい。唇がひび割れて血がにじんできた。
期末考査三日目は英語、社会、保健体育。
ぐったりと机にへばりつく僕をにらみながら、千林はいらいらと鉛筆を噛んでいた。住之江が心配そうに寄ってきたが、相手をする元気もなかった。高井田は全然やる気のない顔をして、消しゴムに鉛筆で穴をあけていた。
考査全日程の終了後、僕はもう自分の足で立ち上がることもできなくなっていた。
キアと住之江に両脇を支えられてなんとか保健室に移動し、ベッドに倒れ込んで気を失った。
2003/07/14 Tue.
ガラス窓にかちり、と何かが当たる音がした。
ベッドから頭をもたげて外を見た。
きつい西日のさすベランダに、ほっそりした少年がしゃがんで窓越しに手を振っていた。
僕は急いで布団を抜け出し、サッシ戸の鍵をあけた。
「そないにあわてて動かんでもええで」
「もうどこも悪くないよ。何もする気がしないんで、ごろごろしてただけさ」
試験最終日、保健室に駆けつけた母さんが、そのまま診療所へ連れて行ってくれた。
診断は急性胃腸炎による脱水状態。
「なんでもっと早く連れてこなかったんですか。早めに輸液すれば軽くてすんだのに」
そう医者に言われて、母さんはひたすら頭をさげていた。
登校を禁じられるのがいやで受診を先延ばしにしたのは僕なのに。
申し訳ないのと身体がだるいのとで、週末はひたすらベッドで小さくなっていた。
月曜、火曜とずるずる休んでしまったのは、体調不良というよりは緊張の糸が切れてしまったせいだ。
キアはスニーカーのかかとをつま先で押さえて脱ぎ散らかし、僕の部屋に足を踏み入れて珍しそうにあたりを見まわした。
ベッドと学習机と本棚と洋服ダンス。六十センチ水槽のほかにはありきたりの家具しかない地味なインテリア。
本棚の上にたてかけられたダンゴムシの写真パネルをみつけて、キアはこりこりと鼻の頭を掻いた。その下の棚にごちゃごちゃと詰め込まれた図鑑や生き物の本や小説やマンガを見て、まぶしそうに目をほそめた。
「なんで玄関からはいってこなかったの?」
「一階は留守みたいやったし」
「ドアホンを鳴らしてくれたら……」
「病人たたき起こして階段降りさせられるか」
「大げさだな」
キアはくすっと笑って手にした小さなビニール袋をつきだした。
「見舞いや」
袋のなかには見慣れない赤紫色の実がはいっていた。ちょっとつまんだだけでも表皮の柔らかいぶつぶつがつぶれて真っ赤な汁が指についた。
「ありがと。でも、これ何?」
「ヤマモモ。胃腸にええねんで」
一粒食べると酸っぱい味と大きな種が舌の上に残った。
種を唇の端からつまみだして、二粒目をほおばった。
「テストの結果は出そろった?」
「常磐が情報をとってきた。お前、音楽は二番やったで。一番は御影」
「……はあ……」
「それ以外は全教科学年トップ。千林には圧勝や」
「……そうか」
二粒の種をゴミ箱にトスして指先をなめ、ベッドに腰をおろした。
「TOTOはどうなった?」
「火曜日のごたごたのあと、高井田や門真は資金をひきあげたらしい。場がそろわんようなって、流れてもうた」
「ふうん……」
「今は生徒より先コのほうが騒いどうな。安土がお前の成績を職員室で話題にしたみたいや。クラスどころか、学校中の噂になっとうで。宇多野はだんまりやけどな」
「ふうん」
「あんまりうれしそうやないな」
「ほんとに。あんまりうれしくないや。これでもう平凡な一生徒ですって顔はできなくなっちゃったな」
キアは気のないふりをしながら僕の顔色をしっかりうかがっていた。
何を心配してくれているのかはわかっていた。
どうせ四月の事件については最悪の結果も覚悟していたのだ。今のところ生徒間で多少話が広まっただけのこと。長居と母さんに気取られたようすはない。それだけでも気が休まった。
僕は両手の指を組んで伸びをした。
「学校のトイレを下痢便まみれにしちまったあとじゃあ、どんな噂をたてられても怖かないさ」
明日からはちゃんと登校しなくちゃな。
「僕のことはいいけど、そっちは?」
キアはちょっと髪をかきあげて、僕の耳にぼそぼそとささやいた。
「すごいよ。それなら安土先生のグラフでも真ん中より右だろ」
「俺はな。けど、住之江はさっぱりやったな」
「……僕の戦略ミスだ。なんとかやりなおさなくちゃ。千林は?」
「始めっから何もなかったふりすんのに必死こいとう。お前が休んどった間、アホみたいにテンションあげよった」
「テンパったままひきずらなきゃいいんだけど」
住之江のことと同じくらい千林の心配をしている自分に驚いた。
いつの間にか、勝負の目的は楠さんの仇討ちではなくなっていたみたいだ。
キアは肩をすくめて、部屋の隅の水槽に視線を移した。
「単純な魚やな」
「和金だよ。はじめは三匹いたんだけど、二匹死んじゃった。」
「色が赤いだけでフナかハスにしか見えん。チビのくせにでかい水槽に入れてもうて」
「こいつが育ちやすいようにと思って、母さんの友達にもらったんだ」
「のんきなこと言うて、どんどん大きなったらどないすんのや」
「その時はもっと大きい水槽を買うしかないだろうなあ」
信じられないという顔をされてしまった。
「いや……そうなったら痛い出費だろうけどさ」
「金魚すくいしたら、ただコで一匹くれるやつやろ」
「うちで飼い始めた頃の大きさなら三十円くらいで売ってるかな。それが?」
キアは泣きたいんだか笑っているんだかよくわからない顔になって、水槽に手のひらを押しあてた。
「運のええやっちゃな」
僕は本棚から手垢のついた文庫本を一冊ひきぬいて差し出した。
「よかったら、読んでみる?」
キアは一瞬とまどったが本を受け取り、ぱらぱらとページをめくった。
「……フンコロガシ?……」
「……えっと……興味ないなら……」
まずい。調子に乗って、自分の趣味を押しつけてしまった。
僕が表情をかえたことにすぐ気がついたのだろう。
「借りとくわ。ええな」
キアは急いでそう言って、「昆虫記」をジーンズのポケットにつっこんだ。
その時、階下で玄関の扉を押し開ける音がした。
「聡?起きてるの?」
母さんの声を聞いて、キアの顔がふっと曇った。
半開きのドアの外の階段と、ベランダに転がったスニーカーを見比べて唇を噛んだ。
僕はその耳元に寄って声をひそめた。
「はいってきたとこから帰っていいよ」
「けど……」
「西側にまわれば、玄関や台所からは見えないよ。僕がごまかしとくから」
キアがベランダから飛び降りるのにタイミングを合わせて、わざとどたどた音をたてて階段を駈け降りた。
「お腹すいたよ!母さん、遅かったじゃないか」
第三章 フンコロガシ (1) に戻る