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第三章 フンコロガシ (2)

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2003/06/16 Mon.

 理科の実験で千林と同じ班になった。残りの班員がおとなしめだったこともあって、千林がひとり場を仕切って指示をとばした。僕は完全に無視されて何の役割ももらえなかった。
 さぼりだと思われてもつまらないので、黙々とテーブルの雑巾がけや器具の洗浄やゴミ集めをしながら様子をみた。
 実験はうちの班が一番順調に進んでいたが、事細かに口をはさまれる生徒たちはいささかうんざりしているようだ。
 もともと神経質な千林が、最近はとみにぴりぴりとしたオーラを発している。文句など言おうものなら十倍になって返ってくると知っているので、敢えて逆らおうするやつもいない。
 住之江も自分の班でおみそにされているらしく、僕の班と葺合の班のあいだをふらふらと行き来していた。最後には窓辺に突っ立ってぼーっと外をながめていたが、誰も声をかけなかった。
 葺合の班では御影がリーダー格で、各メンバー平等に仕事を割り振っていた。
千林と違って他の班員が聞いてこない限りは指図もしない。足を組んで椅子に腰掛けたまま、映画監督のように悠々と実験を見守っている。
 葺合は黙って自分の分担をこなしていた。作業の進め方について御影の顔色をうかがわなかったのは彼ひとりだと、他の班員は気づいていただろうか。
 高井田と門真は最後まで作業に加わらず、実験室の隅にすわりこんでふざけあっていた。

2003/06/18 Wed.

 休み時間、机につっぷして目を閉じていると、からかうような澄んだ声が降ってきた。
「常磐があんたの勝負にTOTOを張ってるわ。オッズを再検討しないと場が成立しなくなりそうだけどね」
 頭を少しねじって片眼を開けた。御影がすまし顔で僕を見下ろしていた。
「……どういうこと?」
「中間考査の成績から、倍率三くらいであっちが有利って見たてたみたいなんだけど」
「……こないだは手抜きしたもんな……」
「数学の追試の結果が出てから、あんたの株があがってるの。西小時代の成績情報も流れてるし」
「その情報源って御影じゃないの?」
「あんたに張るつもりなら黙ってるほうがお得でしょうけどね。私は賭け事なんてバカな遊びには乗りませんよーだ」
 賭ける気はなくても周囲の動きを楽しんでるんだろ。
 ますます頭が重くなってきた。
 千林に公然と挑戦状をたたきつけたのは、あいつが逃げるのを牽制してフェアな勝負に持ち込みたかったからだ。他の連中が悪のりしてくるとまでは予想していなかった。
 これはちょっとやばいかもしれない。金品が動くとなると余計な連中がうごめきだす。
 一応、情報提供の礼を言おうと思ったが、僕がのろのろと身体をおこした時には御影はもう自席にもどってしまっていた。

2003/06/20 Fri.

 膝にひろげたノートにぽつんとしみがついた。
 空を見上げた僕の額にもぽつんと水滴があたった。と思ったら、あっという間にさわさわと雨が降り出した。
 僕と葺合はあたりに散らばった学用品をかき集めて抱きかかえ、祠の軒に避難した。
「本格的に梅雨入りしちゃったな。もうここでは特訓を続けられないなあ」
 狭くて低い軒下ではふたりが腰をかがめて雨宿りするのがせいいっぱいだ。青池のほとりには他に屋根と呼べるものはない。
「……教室に行くしかないか」
「気乗りせん顔やな」
「ちょっと事態が過熱しちゃってる気がするんだ。これ以上、学校で目立ちたくない」
 荷物を鞄にまとめて折り畳み傘をひらいた。ふたり並んで片方ずつの肩を濡らしながら歩き出した。
 どこからかドクダミの匂いがただよってきた。
「高井田は千林に勝たしたいみたいやで」
「クラスのなかでごたごたするくらいは仕方ないと思ってた。でも、あいつらがあんまりバカなことを始めたら、先生より先に上級生が出てきそうだ」
「旧校舎におるアホ共な。自分らは特別みたいな顔しよって。先コも腰がひけとんのは、なんでや?」
「……噂話しか知らないけど」
 こんな話を今したものかどうか。躊躇した僕を葺合が目で促した。
 僕は傘ごしに周囲を見まわし、声をひそめた。
「今の校長さ、うちへ来て二年、あと一年で定年なんだけど。今まで二年おきくらいに学校を替わってきたらしいんだ。その理由っていうのが……いつもオンナ絡みなんだってさ」
「……」
「カメラ隠し持って本屋うろついてたとか、女子更衣室にはいりこんでたとか、若い女の先生を指導に呼んでどうとか、PTAとの飲み会でごちゃごちゃとか。そんなことがあるたびにノシつけて追い払われてる、みたいな」
「なんでクビにならん」
「親戚に教育委員会の偉い人がいるから。噂だよ。誰も本当だとは言わない」
 葺合はばかにしたように肩をすくめた。
「江坂のほうは自分のバックを適当にひけらかしてる。親父さんが神出じゃ有名なソープランドチェーンのオーナーなんだって。二号さんの子だから名字は違うけど……」
「萩筋の出戸(でと)か!」
 いきなり固有名詞を出されて、僕のほうがびっくりした。
「知ってる人なの?」
 葺合はげんなりした顔になって鼻の頭をかいた。
「売布に面が割れとったんは、そんでか」
 気になる発言だったが、それ以上のことは話してくれそうになかった。
「で、エロ校長と出戸のおっさんがどこでつながるんや」
「この先は噂も噂。誰かの作り話じゃないかって思うんだけどね。新任祝いで酔っぱらった校長が勢いで新しい部下をひきつれてオンナ遊びに行った先で、自校の生徒とばったり出会った。お前こんなとこで何してる。親父の家やけど、先生、客か……」
 葺合が噴きだした。まったくたちの悪い冗談だ。
「きっかけはそこまでばかな話じゃないんだろうけど、江坂と校長のなれ合いは事実だよ。校長は定年まで、これ以上のスキャンダルはおこしたくない。江坂は校内のろくでなしを牛耳って適当に揚がりをせしめている。警察沙汰にならない程度にね」
「けど烏丸、えらい詳しいな。お前、こういう噂には興味ないほうやと思うてたけど」
 僕は口をつぐんだ。ちょっとしゃべりすぎてしまったかもしれない。

 しばらくは二人とも黙ってあぜ道を歩き続けた。
 雨に濡れた木々は元気いっぱいに枝をのばし、道端の雑草もつやつやした葉っぱを茂らせ、なかには小さな花を咲かせているものもあった。
 長居でなくても、こんな日は学校に行くのが億劫になる。
 人間はどうして草木みたいに黙って自分の領分だけを守っていることができないんだろう。
「……葺合くんが転校してきてからさ。僕、自分の気にしていたことがばかばかしくなっちゃったんだ。こんなせせこましい学校の中でおきることに、どれほどの意味があるんだろうってさ……」
 またしばらく沈黙が流れた。
 葺合は道端で鈴なりの小花を咲かせている丈の高い雑草に手をのばして、ぽきりと折りとった。ごわごわした葉と一緒にくるりと皮をむしって髄を噛みしめ、唇をすぼめた。
「すぅ……」
「スカンポはすっぱいもんだろ」
「スイスイや」
「僕が小さい頃はスカンポって言ってた。和名はスイバ。漢語ではサンモ。英語ならソレル」
「ややこいわ。そんなに名前があったらわけわからん」
「学名はよそ行きの名前。誰にでも通じる名前がないと困るからね。でも、近所の人どうしで使う名前はいろいろあっていいんじゃない?」
 明智でも常浜でも、子ども達は昔からスイバを折って口にいれてきた。仲間内で通じる名前は遊びの一部だ。スカンポ。スイスイ。スイド。スッパグサ。
「身近なものや大事なものほど、特別に呼び名をつけたくなるんじゃないかな、人間ってさ」
「ふうん……」
 葺合はちょっとの間ちぎった葉を指先でもてあそんでいたが、やおら振り返って僕にぐいと顔を近づけた。
「おい。烏丸。俺に名前つけろ」
 薄緑に染まった指で自分の胸を指した。
「え?え……でも葺合くんは……滋くんで……」
 僕は思わずあとじさった。
「いちいち『ふ・き・あ・い」に『くん』づけされて、長ったらしいてかなわん」
「呼び捨てにしろって?『滋』でいい?」
「それは親の使う名前やろが。お前だけが使う名前、もっとちゃうの、つけろ」
「そんな……」
「ええから、はよせえ」
「そんな無茶な……きあ……」
「ああ、それでええ。キア、な」
 僕はぽかんと口をあけて葺合を見た。
 しどろもどろになって舌がもつれたので、葺合の「ふ」がちゃんと聞こえなかっただけだろうに。
 相手はすっかりその気になってしまっている。
「……キア……」
 短すぎて、なんだか頼りない。
「俺がキアなら、烏丸はラス、やな」
「ええー、何それ。まるで犬じゃない」
 葺合は……キアは聞く耳持たなかった。
 緑色の穂をつけたばかりのエノコログサを一本引き抜いて、僕の目の前でちゃらちゃらと振りまわした。
「ラース、ラスラス」
 もう、反論するのもばかばかしくなった。
「わん!」
 一声ほえて噛みつくまねをした。キアは傘からひょいと離れて笑いながら駆けだした。
 僕ら二人はじゃれるように追いかけっこをしながら学校の門をくぐった。

2003/06/24 Tue.

 朝のうち、どんよりと曇っていた空から昼過ぎには雨が降り出した。
 今朝は寝坊して、金魚水槽用の汲み置きバケツをベランダに出しっぱなしにしてきてしまった。
 ちゃんと蓋をしたかどうかも思い出せない。
 急いで家に帰りたかったが、住之江の復習につきあってやらなくてはならない。
 僕がいつもよりイライラしているのを感じ取ってか、住之江もいつも以上に自信なさげで、鉛筆を運ぶ手も止まりがちだった。
 帰り支度をすませたキアは、教室の時計を気にしながらも、机をはさんで差し向かいに座った僕らから目を離せないでいた。
「そりゃあ、カッコを全部はずしてから移項しても間違いじゃないけどさ」
 同じ説明を何度繰り返しただろう。僕はうんざりしながら鉛筆の尻で机を叩いた。
「どっちの辺にも三の倍数がくっついているなら、そこを先に消しちゃったほうが手間がかからないだろ」
 住之江は背をまるめて上目遣いに僕を見た。
「三問目、それでまちがえた」
「あれは二と五だったじゃないか。約せない数字まで消しちゃだめだ」
「……」
「わかったよ。区別がつかないってんなら、全部先にばらしちゃえよ。そのかわり、計算まちがいが増えても知らないぞ」
 住之江は今にも泣き出しそうなふくれっ面になった。
 やおら立ち上がって鞄をつかむと、一目散に教室を飛び出していってしまった。
 はずみで消しゴムが机から転がり落ちて跳ねとんだ。教科書もノートもひろげたままだ。
 びっくりして腰を浮かした僕をキアが引き留めた。
「もう、堪忍したれよ」
「でも……」
「俺と違うて、あいつはこのあと塾に行って、帰ったら宿題すむまで寝かしてもらわれへん。お前と一緒におりとうて我慢しとったけど、もう限界やろ」
 頭からすっと血の気がひいた。キアにはそんなふうに見えていたのか。
 休み時間になるとキアにすりよって好きなことをしゃべっていた。僕がさそうまでひとりで弁当を食べていた。授業がはじまって十分もたつと、ぼんやりと窓の外を見ていた。僕がしてきたことは、住之江の貴重な息抜きを奪って頭を混乱させるだけだったのだろうか。
「……僕、住之江くんに嫌われちゃったかな」
「お前が嫌いなんやない。自分が情けないんや。何度教えられてもわからへん、お世話してもうてんのに結果がだせへんゆうんがどんな気持ちか、お前にわかるか?」
 僕は首を横に振った。自分の計画が住之江にそこまで負担をかけるとは思っていなかった。それを言うなら、キアだって僕の身勝手をどれだけ我慢してくれていたのだろう。
 何も言えなくなった僕の背中を軽く叩いて、キアはさきに教室を出て行った。

 住之江の残した学用品をひとりで片づけて校舎を出た。そぼ降る雨のなか、校庭ではサッカー部員が泥んこになって走りまわっていた。正門を出てしばらく歩いたところで僕のこうもり傘の下に薄桃色の傘がそっとはいりこんできた。
 大宮だった。
「去年、兄が受けた期末の問題。役にたつかしら」
 手渡された大判の封筒はきっちりとビニール袋に包まれていて、ずしりと持ち重りがした。中身は問題用紙だけではなさそうだ。なんでここまでサービスしてくれるのか不思議だったけど、ありがたいことは確かだった。
「すごく助かるよ。僕、クラブに入ってないから、過去問をどこから手に入れようかと悩んでたんだ」
 大宮はほっとしたように微笑んだ。けれどもその顔はまだちょっぴり気になることが残っているようにみえた。
「こないだの宣戦布告にはびっくりしたわ。烏丸くんて、人と違うことしてめだつのが怖くないん?」
「ちょっと前までは遠慮してたつもりなんだけどね。いい加減、いやになっちゃった。ずっと周りにあわせてるなんて、どのみち僕には無理だったんだ」
「でも気ぃつけてね。今度のこと、おもしろがってる人たちだけやないから」
「大宮こそ、僕と一緒のとこを誰かに見られないように気をつけろよ。とばっちりくらうのもばからしいだろ」
 今度はなんだか泣きそうな笑顔になった。
「お邪魔にならへんようにするね」
 そうして小走りに僕を追い抜いて帰っていった。
 僕は立ち止まって傘をぐるりと廻した。大宮の気にさわるようなことを言っただろうか。味方してくれるのはうれしいけど、巻き添えをくうのがこわくないんだろうか。
 誰が見ても最近の千林はせっぱつまった状況だ。高井田があっちに賭けているなら、きっと僕をつぶす機会をうかがっているはずだ。


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