第一章 営巣 (9)
2006/04/15 Sat.
私立高校に入学してから一番うっとうしいと思ったのは、土曜日も登校しなくてはならないことだった。明峰では一応、自由参加の補講ということになっているが、教科担当の教師の指導でほとんど全生徒が参加するのだから、規定の授業とちっとも変わらない。
長い長い一週間がようやく終わって帰り支度をしているところへ、ひとりの女子が声をかけてきた。
「お邪魔します。烏丸さん、今日はまっすぐお帰りですか?お昼ご飯はおうちで?」
セルフレームの眼鏡に低めのポニーテール。破綻もしてないけど特徴もない、悪く言えば地味、よくいえば落ち着いた風貌。二、三歩さがったところで静かに控えている態度が、わりといい感じだ。けっこう大きめの胸の名札には「園田」と彫ってあった。
「そのつもりだったけど、思ったより遅くなっちゃいましたね。途中でどこかに寄ってもいいかな」
丁寧なお誘いには丁寧に返事するのが筋だろう。まっすぐ帰ってもキアはまだ仕事中だし。
「ランチのおいしいお店なら知ってますよ。駅の反対側だから、あまり混んでいないし。男の人にはちょっとボリューム不足かもしれないけど……」
うれしそうに乗ってきた園田の顔色が急に変化した。
「えっと……今日はご先約があるみたいだから、また今度にしますね……」
僕の真横に、さらりとした黒髪の「ご先約」が腕組みして立ち、園田を冷ややかに見据えていた。周囲に人がいなくなったところで、御影にひとこと言わずにはおれなかった。
「馬に蹴られて死んじまえって」
「目障りな羽虫を追っ払ってあげたのよ」
御影は当然の権利のように僕と並んで歩き出した。
「あの子、ムシも殺さないって顔してるけど、女子の間じゃ有名なピンキーよ。前途有望そうな男子に手当たり次第声かけてるって」
昼飯前に聞きたい話題じゃないよ。
「前途有望なんて、どうしてわかるのさ」
「余裕のない人たちって見えちゃうじゃない。必死で受験勉強して、ぎりぎりの成績で合格したものの、そこで力尽きてあとが続かない。周りはみんな自分より秀才に見えて、でもついていく気力も残ってないから、自分より弱そうなのを蹴落とそうとしてる」
誰のことを言っているのかはわかったけど、これも聞かされて気分のいい話ではなかった。
「現状に不満なら、体当たりで逆らってみせればいいのにな」
嫌みに言い返してしまってから唇が寒くなった。
「テロリストの思想ね。そこまで骨があるなら弱い者いじめには走らないわ」
「いじめだって限度を超えれば自分の身にかえってくるだろう」
「破壊しているものが何なのか、取り返しがつかなくなるまでわからない人もいるのよ」
御影は左手に持った最新機種の携帯を西部劇のガンマンのようにくるりとまわしてみせた。
「……まだやってるのか」
中学時代から、彼女の特技は裏サイトつぶしだ。
「声なき弱者の救済よ」
「ただのネットリンチだろ」
「ハッキングとか犯罪行為に走ってるわけじゃないもん。節度のわからない人たちに、公開されてる情報を集約してお返ししてるだけよ」
御影の両親は、たぶん娘の裏の顔には気がついていない。
緑したたる桜並木を抜けて校門の外に出ると、そこはもう普通の市街地だった。僕らは車がびゅんびゅん行き交う幹線道路を渡って、駅へ続く道をしばらく黙って歩いていった。
「どこまでくっついてるつもりだ?」
「ペアでいると一番盗み聞きされにくいのよ」
それはそうだろうけど、御影の彼氏に見られるのはまっぴらだ。
「まだ言いたいことがあるんなら、さっさと済ませてくれ」
僕の気持ちをわざとじらすみたいに、御影はゆっくりと話し始めた。
「意見が聞きたいの。聡、この学校のことどう思う?」
「どうって……私立の進学校なんてこんなもんだろ」
「平和すぎるのよ。さっき話したのはいじめの一般論だけど、この学校はちょっと違うの。そりゃあ、なるべく面倒なことはおこさずに卒業したい人たちが集まってるのはわかるけど、そういう抑制が産むはずの、陰にこもったいやらしい人間関係が見えないのよね」
「陰湿ないじめが無いんならけっこうなことじゃないか。自警団も役にたってるわけだ」
「そこなのよ」
額の真ん中からきれいに分けられた前髪の下で、切れ長の目が蛇のように光った。
「この前、高塚くんにちょっかいかけてた二人、どうなったと思う?」
「僕が知るわけないだろ」
「中国拳法部に入部したわ。はじめはいやいやだったみたいだけど、美人の師範にかわいがられて、思ったより居心地がよかったのかしら。当分やめるつもりはなさそうよ」
「うまいこといったな。部活の連中と一緒にいれば、もう弱い者いじめはできない」
「うまく行き過ぎよ。どうしてあいつらが入部する気になんかなったわけ?」
「別にどうしてだっていいじゃないか」
僕は苦笑した。
「中学校の秀才が、進学校ではただの人。それに我慢できないやつが、別のステータスをみつけて落ち着けるんなら、勝手にすればいい。たかが高校生のボランティアだ」
「たかが高校生のボランティア?本当にそう思ってる?」
進行方向から歩いてくる三人組を見かけて、僕らはしばらく口をつぐんだ。三人とも明峰の制服の袖に黄色い腕章をとめていた。すれ違いざま、こっちに手を振ってきたので、僕もちょっと手をあげて応えた。
「ご苦労さんだよ。勉強とクラブの両立だけでも大変だろうに、通学路のパトロールや不満分子の懐柔までしてくれてるとしたら、パンピーとしては素直に感謝したいな」
御影は僕に哀れむような視線を向けた。
「無関係でいられるって錯覚してる人が多いほど、病原体ははびこるのよ」
そうして僕が言い返すより先に、プリーツスカートをひるがえして駅の階段を駆けのぼり、発車ぎりぎりの電車に跳び乗っていった。
次の電車を十五分待つ間に、僕は御影の話について考えた。クラブ説明会で塩屋さんが言ったことや、西代の行動も思い返した。
確かに、この学校では教師の生徒指導は無いに等しい。大人が規制することもないほど、生徒たちがおとなしいからなのか。
僕は首を横に振った。水槽の魚だって飼育密度が限度を超えればいじめが発生する。一番弱い個体を隔離したって、二番手が一番になるだけで、結局は同じ図式がくりかえされる。
御影の目にどう映ろうと、いじめもシカトもない、はぐれ者もいない集団なんて、人間に作れるはずがない。どこかにひずみは生じるはずだ。
御影のせいで予定より三十分も遅い電車に乗るはめになり、家に帰りついたのは二時前だった。両親は不在で、勇がひとりリビングでTVを観ていた。
冷めた炒飯をレンジに放り込み、ポットのお湯でお茶を汲みながら、ちょっと咳払いをしてみた。幹線道路の脇を歩いていた時から、喉の調子がおかしいとは感じていた。今週はけっこういろんなことがあったからな。炒飯をたいらげた後、ビタミン補給のつもりで野菜ジュースを一本あけた。
製菓工場は朝が早い。始業が午前五時で終業は二時頃だ。食器を片づけたら寿荘に出向いてみよう。それぐらいのことでは体調も悪化しないだろうし。
自転車のタイヤがふわふわしていたことを思い出して、空気入れを取りに勝手口から外へ出た。表のガレージへまわろうとしたところで、足がすくんだ。
隣家との境い目、玄関からは死角になっている電柱の陰にキアが立っていた。
午後の日差しを背中から浴びて、両腕で自分の身体を抱えた姿が暗いシルエットになっていた。二階の僕の部屋あたりを見上げた顔にも濃い影が落ち、表情はよくわからなかった。それでも僕の心臓は何かがおかしいと察して、どくどくと鼓動を早めた。その音が聞こえたみたいに、キアがこちらを向いた。
「帰ってたんか」
平板で、何の感情もこもっていない声。心臓からあふれた血液が頭にどっと流れこんだ。
「おい……何があった?」
「親父さんは、いてはるか?」
「母さんと買い物に出てるんだと思う」
問いかけに問いかけを返されてむっとしたのに、つい返事をしてしまった。
キアは気のない笑顔を見せて、すぐにそっぽを向いた。
「出直すわ」
「ちょっと待てよ!」
空気入れを放り出して表に飛び出し、立ち去りかけた肩を両手でつかんでひき戻そうとした。キアは身体をかたくして、振り向くことを拒んだ。
「何があったんだよ。仕事場でか?父さんがいなけりゃ話せないことなのか?おい!」
そむけたままの顔から、かすかなつぶやきがもれた。
「正社員は簡単にはクビにならんのがええて思てたけど……辞めとうなった時には、かえってややこしいねんな」
僕はあっけにとられて、肩をつかんだ手をゆるめてしまった。キアはすかさずその手をふりほどいて駆けだした。本気で走られたら僕には絶対追いつけない。あわててガレージへ引き返し、自転車に飛び乗って必死でこぎ出した。タイヤの空気圧なんて気にしていられなかった。
住宅街の坂道を下り、国道まで追いかけていったところで、急にわいたような雑踏にまきこまれた。今日は重機工場の家族まつりだったのか。秩序のない人混みが道路沿いの駐車場から向かいの広い門の間にあふれて、のんびりと行き来している。車道に飛び出してきた子供をよけようとして急ブレーキを踏んだ。ぶつかったわけでもないのに、子供の母親らしき人ににらみつけられた。業をにやして、僕は国道を離れ、細い側道に乗り入れた。
未舗装の砂利道、田んぼの畦道を踏み越えて、汗だくになりながらペダルをこいだ。空気の抜けたタイヤからサドルにがたがたと振動が伝わってくる。ごろごろ転がった石を乗り越えようとした時、強い衝撃がぎんっと車輪をはじいた。やばい、と思った時には転倒していた。汗で手がすべり、ハンドルを手放すタイミングが遅れた。自転車のフレームに身体がからまったまま、砂利道を転がってブロック塀に衝突した。背中をしたたかにぶつけて息がとまった。
なんとか気持ちをとりなおして、手足をゆっくり動かしてみた。あちこち痛むが、折れたりねじったりしたところはないようだ。自転車のほうはフロントフォークがひんまがってしまっていた。動かなくなったハンドルにつかまって身体を起こし、足をひきずりながら自転車を押して歩いた。家を出てから一時間近くかけて、ようやく寿荘にたどりついた。
二〇五号室は留守だった。合い鍵は持ってきていなかったので、ドアに耳をあててみたけれど、何の物音も気配もしない。鉄のドアにもたれてぺたりと座りこみ、両足を抱えた。ジーンズの左膝にはかぎ裂きが走り、乾きかけた泥汚れとじくじくとにじみだした血に染まっていた。僕はそのまま背中をまるめて、キアの帰宅を待ち続けた。
さっきまで照りつけていた日光が雲にさえぎられて、じわじわと気温が下がっていった。シャツに染みた汗が冷たくなって、街灯が灯り始めた頃、母さんがワゴンRを運転して迎えに来た。後部座席を平らにし、ひしゃげた自転車をなんとか押し込んで持ち帰った。
家に戻るとすぐに風呂場に追い立てられた。夕食前にもう一度、寿荘のピンク電話にかけてみた。何十回コールを聞いても誰も出てくれなかった。さらに一時間後、もう一度かけ直した。今度は二十回目くらいのコールで誰かが受話器を取った。
「俊子かあぁぁ……」
聞き覚えのある甲高い情けない声。僕は反射的に通話を切って子機を充電台に叩きつけた。
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